如月十八日 日曜日 好天 土日の役所前は閑古鳥が鳴いてた…

午前8時から「春祈祷」が1件ありました。

その後、9時開始の「義援活動」に急いで駆けつけるつもりでしたが、
結局間に合いませんでした。寝坊して準備が遅かったもんで・・・(^^;)←だらしない神主!


まあとにかく土日の役所前は人通りがほとんどない! 

全く商売になりません。商売あがったりです!(-_-)ウーム←商売じゃないだろ!

スーパーマーケット前とかに移動すべきだったかも(・_・?) 今頃言っても遅いけど・・・(^^;)


ところで、今回協力して頂いている田中ボランティアサークルの会長さんは、
活動の一環として、昨日「老人クラブ」の皆さんを温泉に引率してきたそうです。


ボランティアの鑑(手本・模範)みたいなオバちゃんなんでしょうか(・_・?) 

さすがは会長さんです。

「お主只者ではないな?(-_-)ウーム」←時代劇風口調


ドイツ観念論を代表する哲学者ヘーゲルはこんなことを言っています。


人はみずからの欲望を追求する自由な個人であるだけでなく、
家族の一員として互いを愛し配慮しあい、また国家の一員として、
この社会全体がより望ましいものであるように配慮しあう。

この在り方において人の生は満たされる。

さまざまな困難をわかちあったり、
解決しうる方法があればともに模索しあったりすること。
そういう「支えあい」の次元を人は必ず必要とする。

個としての自由な快楽を入手できずさまざまな困難に出会うとき、
人は生きる理由そのものの不在に直面せずにはおれない。

快楽と富を求めるゲームしか存在しないとすれば、
そのなかで人は敗者と勝者になるだけなのですから。
もしそれ以外に人の生を支えるものがあるとすれば?

ずっと互いの生を見守りながら過ごしてきた人たち
(奥さんや親しい友人たちなど)でしょうか、
血のつながりというより、生と死を見守るもの同士のつながり、
これを私たちは、広く「家族」と呼んでいるのかもしれません。

かつての共同体的な生き方に立ちもどるわけにいかないことも、誰もがわかっている。 
しかし、他者と「つながっている」という感覚のみが絶望を救うということなのか…

自分の生にとって大切なものは何か、
ということを徹底して問うときに、他者とのつながりが単なる拘束などではなく、
他者のために活動することが自分の喜びでもありうることに気づける。


共同体的な生き方というのは、神道の「家族主義」にも当てはまることでしょうか。

まあ今は「個人」が優先されすぎる極端な時代なんでしょうけどね・・・



当神社境内に酒樽を置いてもらっている地元の蔵元さんです↓(^^)

蔵の高屋根に立つと、遠く見渡せる一面の田んぼ、そんな地元のお米だけを使っています。

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