霜月十五日 水曜日 雨 4日連続の雨(-_-;)
「苛め問題」の第3回目の記事を更新してみたいと思います(^^ゞ
第1回目の記事↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/41915102.html
第2回目の記事↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/42069941.html
【1,超越的存在(神仏)に帰依せずに良心の呵責(かしゃく)に耐える困難について】
Q&A【帰依(きえ)】とは(・_・?)
神仏や高僧などのすぐれた者を信じ、
それによりすがること。三省堂提供「大辞林 第二版」より
前回の記事で、「罪悪感」について少しふれたのですが、
仮に心底これを感じた場合、
世の中には、「良心の呵責(かしゃく)」に耐えきれず、
「自殺」を選択する人もおります。
要するに「自分を責める」ことにより「挫折&絶望」
してしまうということです。
先日も、某学校の校長が責任を感じて「自殺」
をしたという報道がありました(-_-;)
やっぱり真面目な人に多いと思います。
しかし、組織のトップが死んでも「問題の根本的な解決」
に繋がらない場合が多く、
「あいつは自分だけ死んで楽になったんだよ。
自殺なんて責任放棄にすぎない行為だね。」
な~んて言われることも多い気がします(-_-)ウーム
死んでも責められるんですな…
人は、他人に対して、ある程度寛容になれても、
自分には、寛容になれないものだと思います。
なぜなら、自分で、自分を許すためには、
自分の過ちや、罪を、認めなければならないからです。
自分で、自分の罪や過ちを、認めた瞬間、
自分のそれまでの存在を支えてきた、
人生や行いを、否定しなければならない。
人にはそれぞれ、程度の差こそあれ「自尊心(プライド)」があるので、
「自己の非」を認めるには、精神的な苦痛を伴ないます。
それまでの、自分の罪や過ちを認めながら、
なおかつ、自らを許すためには、
自己を超越した存在、そう、神仏を必要とする。
自己を超越した普遍的な存在、
神仏の御前でなら、
自分の罪や過ちを認め、
精神を平静不動のものに浄化できます。
もし、あなたが前非を悔い、生き方を改めようとした時、
誰が、あなたを許すんでしょうか?
あなたが、あなたが犯した過去の過ちや罪を認め、
悔い改めようとしたら、
過去の過ちや罪を受け入れ、許すものがいなければならない。
それが、神仏というわけです。
宗教には「自分の弱さを棚上げして絶対者に帰依する」
という一面があります。
仏様はいつだって許してくれます。
仏教は人間に「煩悩」があり「罪悪」を生むことを大前提として、
その教えを説いてくれているわけですので…。
皆さん今から仏法に耳を傾けましょう!(^^)←仏教徒?
冗談はさておき、
「過ちを認める者と、過ちを許す者が同じでは、
結局、過ちを認めたことにも、許すことにもならい。」
罪人と裁く者は、一体にはなれない。それが道理だからです。
人は、神仏のみによって許され、
神仏のみによって悔い改めることができる。
それ故に、人は、神仏を必要とします。
【2,自己を正当化してしまう人間の弱さ】
人間は弱いもんです。というか私が弱いだけかもしれませんが…
私が車でお祭りに伺うと、神事終了後にきまってお酒をすすめられます。
まあ社交辞令みたいなもんかもしれませんが…(^^;)
飲酒運転になるので、御神酒程度はともかく
基本的にお茶をいただきます。当然の事ですが…
まあ正直に言うと、
呑んで堂々と帰って来たこともあります( ̄m ̄〃)←犯罪者
神仏の御前でちゃんと悔い改めました<(_ _*)>
もう絶対しません<(_ _*)>←ホントか?
「少しなら大丈夫だよ! 俺は運転に自信があるから!」
な~んてことを言う人もおります。
やはり信仰なくして、モラルは保てません。
信仰がなければ、
道徳は人間同士のつきあいや世渡りのための方便に過ぎなくなります。
しかし、道徳は、処世術の道具ではありません。
道徳は、あなた自身の規律です。
つきあいや世渡りは、相対的なものであり、
普遍的なものではありません。
つきあいや世渡りが目的では、「罪の意識(罪悪感)」は生まれません。
それでは、人は、自分の過ちに気づき悔い改めることはできません。
人を誤魔化すことや欺くことしかできません。
信仰心のみが、人を過ちから救うことができるのです。
「信仰という原点」がなければ、「自己を正当化」し、
自分の過ちを誤魔化し続けてしまいます。
例えば、車でお年寄りをはね飛ばしても、
「年寄りがノロノロ歩いてるのが悪いんだよ!
俺は絶対に悪くないヽ(`д´;)/うがぁ!」
→迷ったけど結局その場から逃げる!
な~んてことにもなりかねません。
まあ私は当然逃げたりしませんよ(^^;)←ホントか?
つまり「信仰という原点」がないと、
「①罪悪感(罪を認める)」→「「②良心の呵責に耐える」→「③反省」
という過程の筋が通らないため、
論旨をまとめることが絶対にできない!という話です。
宗教は、実践的な判断基準として、
守るべき基本事項を戒律に定めたり、
教育で補完したり、
更に懺悔や祈りによる反省の機会を与えることにより、
日常生活の中で有効な実践規範となってきたものなのです。
古来追求されて来た道徳哲学が、
人間の倫理に確固たる基準を示せないで悩んでいるとき、
これに決着をつけたのは宗教であった。
神仏を信じなければ道徳というものはあり得なかったのです。
かなり長くなってきたので次回に続きます(^^ゞ 最終回のつもりだったけど…
「苛め問題」の第3回目の記事を更新してみたいと思います(^^ゞ
第1回目の記事↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/41915102.html
第2回目の記事↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/42069941.html
【1,超越的存在(神仏)に帰依せずに良心の呵責(かしゃく)に耐える困難について】
Q&A【帰依(きえ)】とは(・_・?)
神仏や高僧などのすぐれた者を信じ、
それによりすがること。三省堂提供「大辞林 第二版」より
前回の記事で、「罪悪感」について少しふれたのですが、
仮に心底これを感じた場合、
世の中には、「良心の呵責(かしゃく)」に耐えきれず、
「自殺」を選択する人もおります。
要するに「自分を責める」ことにより「挫折&絶望」
してしまうということです。
先日も、某学校の校長が責任を感じて「自殺」
をしたという報道がありました(-_-;)
やっぱり真面目な人に多いと思います。
しかし、組織のトップが死んでも「問題の根本的な解決」
に繋がらない場合が多く、
「あいつは自分だけ死んで楽になったんだよ。
自殺なんて責任放棄にすぎない行為だね。」
な~んて言われることも多い気がします(-_-)ウーム
死んでも責められるんですな…
人は、他人に対して、ある程度寛容になれても、
自分には、寛容になれないものだと思います。
なぜなら、自分で、自分を許すためには、
自分の過ちや、罪を、認めなければならないからです。
自分で、自分の罪や過ちを、認めた瞬間、
自分のそれまでの存在を支えてきた、
人生や行いを、否定しなければならない。
人にはそれぞれ、程度の差こそあれ「自尊心(プライド)」があるので、
「自己の非」を認めるには、精神的な苦痛を伴ないます。
それまでの、自分の罪や過ちを認めながら、
なおかつ、自らを許すためには、
自己を超越した存在、そう、神仏を必要とする。
自己を超越した普遍的な存在、
神仏の御前でなら、
自分の罪や過ちを認め、
精神を平静不動のものに浄化できます。
もし、あなたが前非を悔い、生き方を改めようとした時、
誰が、あなたを許すんでしょうか?
あなたが、あなたが犯した過去の過ちや罪を認め、
悔い改めようとしたら、
過去の過ちや罪を受け入れ、許すものがいなければならない。
それが、神仏というわけです。
宗教には「自分の弱さを棚上げして絶対者に帰依する」
という一面があります。
仏様はいつだって許してくれます。
仏教は人間に「煩悩」があり「罪悪」を生むことを大前提として、
その教えを説いてくれているわけですので…。
皆さん今から仏法に耳を傾けましょう!(^^)←仏教徒?
冗談はさておき、
「過ちを認める者と、過ちを許す者が同じでは、
結局、過ちを認めたことにも、許すことにもならい。」
罪人と裁く者は、一体にはなれない。それが道理だからです。
人は、神仏のみによって許され、
神仏のみによって悔い改めることができる。
それ故に、人は、神仏を必要とします。
【2,自己を正当化してしまう人間の弱さ】
人間は弱いもんです。というか私が弱いだけかもしれませんが…
私が車でお祭りに伺うと、神事終了後にきまってお酒をすすめられます。
まあ社交辞令みたいなもんかもしれませんが…(^^;)
飲酒運転になるので、御神酒程度はともかく
基本的にお茶をいただきます。当然の事ですが…
まあ正直に言うと、
呑んで堂々と帰って来たこともあります( ̄m ̄〃)←犯罪者
神仏の御前でちゃんと悔い改めました<(_ _*)>
もう絶対しません<(_ _*)>←ホントか?
「少しなら大丈夫だよ! 俺は運転に自信があるから!」
な~んてことを言う人もおります。
やはり信仰なくして、モラルは保てません。
信仰がなければ、
道徳は人間同士のつきあいや世渡りのための方便に過ぎなくなります。
しかし、道徳は、処世術の道具ではありません。
道徳は、あなた自身の規律です。
つきあいや世渡りは、相対的なものであり、
普遍的なものではありません。
つきあいや世渡りが目的では、「罪の意識(罪悪感)」は生まれません。
それでは、人は、自分の過ちに気づき悔い改めることはできません。
人を誤魔化すことや欺くことしかできません。
信仰心のみが、人を過ちから救うことができるのです。
「信仰という原点」がなければ、「自己を正当化」し、
自分の過ちを誤魔化し続けてしまいます。
例えば、車でお年寄りをはね飛ばしても、
「年寄りがノロノロ歩いてるのが悪いんだよ!
俺は絶対に悪くないヽ(`д´;)/うがぁ!」
→迷ったけど結局その場から逃げる!
な~んてことにもなりかねません。
まあ私は当然逃げたりしませんよ(^^;)←ホントか?
つまり「信仰という原点」がないと、
「①罪悪感(罪を認める)」→「「②良心の呵責に耐える」→「③反省」
という過程の筋が通らないため、
論旨をまとめることが絶対にできない!という話です。
宗教は、実践的な判断基準として、
守るべき基本事項を戒律に定めたり、
教育で補完したり、
更に懺悔や祈りによる反省の機会を与えることにより、
日常生活の中で有効な実践規範となってきたものなのです。
古来追求されて来た道徳哲学が、
人間の倫理に確固たる基準を示せないで悩んでいるとき、
これに決着をつけたのは宗教であった。
神仏を信じなければ道徳というものはあり得なかったのです。
かなり長くなってきたので次回に続きます(^^ゞ 最終回のつもりだったけど…