【古典研究による神道の道徳2】

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ミソギとハラエ…罪は祓で除き、穢れは禊で清める
 
「ミソギ」(禊)、「ハラエ」(祓)は神道の祭りを行なう上でたいへん重要な神事です。

神社にお参りに行くとわかるように、鳥居をくぐって境内に入ると、
神様を拝む拝殿の左側に必ず手水舎がある。

手水舎で手を洗い口をそそいで拝殿へ進むのが、
神社参拝の大事な作法であることは、よく知られています。

これが清めの神事であり、ミソギを簡略化した作法なのです。

本来ならば、衣服を脱いで川の水や海の水、あるいは井戸水で身体全体を清める。

また、一般にいうお祓いとは、正確には修祓(シュバツ)という儀式であり、
参拝の前に神主が大幣(オオヌサ)という、木の棒に紙をいっぱいつけたものを、
左・右・左と振って、身体の罪を祓うことなのです。

日本語の穢れという言葉は、気枯れと同義語であり「気」は人間の生きる気力を意味する。

その気力が衰弱していくことをキガレ=ケガレと考えられる。

一方、川や海や井戸には各々神がいて、水そのものに神霊の力が宿っている。

そこで気枯れた身体を水中に浸すことによって、神々の霊力をいただき、
充実した気力を心身に蘇生させることができる、と信じられていた。

よく「賽銭を投げる」といいますが、
あれも「投げる」ところに意味があり、やはり祓の一種であると考えられます。

もちろん賽銭は神仏へのお礼として奉るものとの意味があります。
しかし、今ひとつ穢れを祓うという意味もあったと思います。

例えば、節分の日に道路へお米やお金を包んだオヒネリを落としておき、
それを乞食が拾っていくのを見届けるという習俗があります。

乞食がオヒネリを拾っていくと厄が落ちるという、一種の厄祓なのです。

神道においては清浄を尊ぶ。

清浄とは見た目が清いというばかりではなく、気力が充実して、
生きる力がみなぎっているという状態なのです。

日常的な活動力(ケとかキ=気)は、神聖性に触れないと、
時間の経過とともに衰えていくものとみなされていたのです。

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