【古典研究による神道の道徳2】
関連記事【古典研究による神道の道徳1】
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/37077995.html
ミソギとハラエ…罪は祓で除き、穢れは禊で清める
「ミソギ」(禊)、「ハラエ」(祓)は神道の祭りを行なう上でたいへん重要な神事です。
神社にお参りに行くとわかるように、鳥居をくぐって境内に入ると、
神様を拝む拝殿の左側に必ず手水舎がある。
手水舎で手を洗い口をそそいで拝殿へ進むのが、
神社参拝の大事な作法であることは、よく知られています。
これが清めの神事であり、ミソギを簡略化した作法なのです。
本来ならば、衣服を脱いで川の水や海の水、あるいは井戸水で身体全体を清める。
また、一般にいうお祓いとは、正確には修祓(シュバツ)という儀式であり、
参拝の前に神主が大幣(オオヌサ)という、木の棒に紙をいっぱいつけたものを、
左・右・左と振って、身体の罪を祓うことなのです。
日本語の穢れという言葉は、気枯れと同義語であり「気」は人間の生きる気力を意味する。
その気力が衰弱していくことをキガレ=ケガレと考えられる。
一方、川や海や井戸には各々神がいて、水そのものに神霊の力が宿っている。
そこで気枯れた身体を水中に浸すことによって、神々の霊力をいただき、
充実した気力を心身に蘇生させることができる、と信じられていた。
よく「賽銭を投げる」といいますが、
あれも「投げる」ところに意味があり、やはり祓の一種であると考えられます。
もちろん賽銭は神仏へのお礼として奉るものとの意味があります。
しかし、今ひとつ穢れを祓うという意味もあったと思います。
例えば、節分の日に道路へお米やお金を包んだオヒネリを落としておき、
それを乞食が拾っていくのを見届けるという習俗があります。
乞食がオヒネリを拾っていくと厄が落ちるという、一種の厄祓なのです。
神道においては清浄を尊ぶ。
清浄とは見た目が清いというばかりではなく、気力が充実して、
生きる力がみなぎっているという状態なのです。
日常的な活動力(ケとかキ=気)は、神聖性に触れないと、
時間の経過とともに衰えていくものとみなされていたのです。
「罪の起源」に続きます↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/37127229.html
関連記事【古典研究による神道の道徳1】
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ミソギとハラエ…罪は祓で除き、穢れは禊で清める
「ミソギ」(禊)、「ハラエ」(祓)は神道の祭りを行なう上でたいへん重要な神事です。
神社にお参りに行くとわかるように、鳥居をくぐって境内に入ると、
神様を拝む拝殿の左側に必ず手水舎がある。
手水舎で手を洗い口をそそいで拝殿へ進むのが、
神社参拝の大事な作法であることは、よく知られています。
これが清めの神事であり、ミソギを簡略化した作法なのです。
本来ならば、衣服を脱いで川の水や海の水、あるいは井戸水で身体全体を清める。
また、一般にいうお祓いとは、正確には修祓(シュバツ)という儀式であり、
参拝の前に神主が大幣(オオヌサ)という、木の棒に紙をいっぱいつけたものを、
左・右・左と振って、身体の罪を祓うことなのです。
日本語の穢れという言葉は、気枯れと同義語であり「気」は人間の生きる気力を意味する。
その気力が衰弱していくことをキガレ=ケガレと考えられる。
一方、川や海や井戸には各々神がいて、水そのものに神霊の力が宿っている。
そこで気枯れた身体を水中に浸すことによって、神々の霊力をいただき、
充実した気力を心身に蘇生させることができる、と信じられていた。
よく「賽銭を投げる」といいますが、
あれも「投げる」ところに意味があり、やはり祓の一種であると考えられます。
もちろん賽銭は神仏へのお礼として奉るものとの意味があります。
しかし、今ひとつ穢れを祓うという意味もあったと思います。
例えば、節分の日に道路へお米やお金を包んだオヒネリを落としておき、
それを乞食が拾っていくのを見届けるという習俗があります。
乞食がオヒネリを拾っていくと厄が落ちるという、一種の厄祓なのです。
神道においては清浄を尊ぶ。
清浄とは見た目が清いというばかりではなく、気力が充実して、
生きる力がみなぎっているという状態なのです。
日常的な活動力(ケとかキ=気)は、神聖性に触れないと、
時間の経過とともに衰えていくものとみなされていたのです。
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