倫理とは、行動の規範としての道徳観や善悪の基準ですが、
この相対性を認れば、善悪には絶対的な基準など全くないということを意味します。
哲学者西田幾太郎氏も「善の研究(←古い!)」の中で、
「深く考えてみれば、世の中に絶対的真善美という者もなければ、
絶対的偽醜悪という者もない。」と記し倫理の相対性を認めている。
人生観や文学などに登場する「ニヒリズム」というものを皆さんはご存知でしょうか?
ニヒルはラテン語の「無」の意味で、虚無主義と訳されています。
すべてが無意味、無価値だから、何をやっても意味がないという人生観だが、
逆に何をやっても許されるという生き方、つまり「何でもあり」であるが故に
「何をやっていいか分らない」、そんな考え方のことです。
ドストエフスキーが「悪霊」を執筆する契機になったネチャーエフ事件のことを、
哲学者の梅原猛先生が紹介している。1869年に起きたネチャーエフ事件というのは、
ペテルブルグ大学の聴講生だったネチャーエフが「人民の裁き」という秘密結社を組織し、
現存社会の転覆を企てたが、同志の1人であるペトロフスキー農業大学生のイワノフが
脱退を申し出た時、密告の恐れありとして惨殺した事件のことです。
「悪霊」でネチャーエフに相当するピヨートルと呼ばれる人物は、
外国から革命思想を携えて帰国し、社会に深い憎悪を持ち、
この社会を転覆させることが歴史の使命と考えたのだ。
「神を信じなければ道徳というものはない。
従って、自分のやりたいことをやることが自分の善となる。」
こうした哲学的命題を自覚したピヨートルは、
「今の社会を転覆することが必要なのであり、そのための行動は善であるから、
その目的を遂行するためには何をしてもかまわないし、いかなる卑劣な手段も許される。」
と考えるニヒリズムの権化のような人物である。
ドストエフスキーは「悪霊」の中で、ピヨートルのような人物は、
崩壊した家庭、社会に対する怨念、そして倫理の荒廃の中から生まれてくると述べている。
実は、このような例は、日本にもあるのです。
例えば1972年に「浅間山荘事件」を起こして
日本中をテレビに釘付けにした連合赤軍の粛正事件。
連合赤軍は、京浜安保共闘時代に、二人の同志が脱走したとして処刑し、
連合赤軍キャンプ時代のメンバーの約半数に当たる12人を、
「反共産主義化」したことを総括する名目で集団リンチを加えて粛正し、
合わせて14名の仲間を殺害したことが判明している。
そう言えば、「浅間山荘事件」は映画にもなりましたっけ?
この事件も、目的のためなら手段を選ばないニヒリズムの結果と考えられる。
最近の例では、オウム真理教の事件は記憶している人も多いと思います。
1995年3月20日の朝、新興カルト集団の「オウム真理教」は乗客12名を殺害し、
数10名の重傷者を含む5500人を負傷させた地下鉄サリン事件を起こしたが、
これは麻原彰晃の心の怨念が引き起こした事件でした。
「オウム真理教」の教義が現実社会の徹底的な否定にあり、
麻原のハルマゲドンの解釈がキリスト教の終末論を殺人肯定の思想に変える結果となった。
つまり、自分達の目指すものを得るためには、
手段を選ばないというニヒリズムの思想が埋め込まれているのです。
戦後教育が平和と民主主義に特化し、倫理を等閑視してきたため、
日本の最高学府で学んだ秀才でさえも、「オウム真理教」の幼稚な理論に
疑問を抱く批判眼さえ持っていなかった証左であるし、人間は哲学科学の教育だけで
完成されるような存在ではないということも示唆しているのでは…?
オウム真理教の事件については、
「今の時代、人間の道徳心が変質しつつあるような気がする」という感想をもらす人もいた。
昨今、日本の教育現場でも子供たちの「道徳教育」ということは議論されているようですが、
「善悪の基準」を即答するというのは、大人でも意外と難しいのではないでしょうか。
はっきりした道徳がなければ、『自分のやりたいことを行うのが自分の善』であり、
いかなる卑劣なことをしてもかまわない。
いたいけない幼児や抵抗できない弱者を自分の欲望の犠牲にしたり、
暴力革命を夢見て仲間をリンチ殺人したり、サリンによる市民の無差別殺傷事件なども、
このような土壌の下に発生したものと考えられる。
古来から追求されて来た道徳哲学が、人間の倫理に確固たる基準を示せないで悩んでいるとき、
これに決着をつけたのは宗教だったわけです。
この相対性を認れば、善悪には絶対的な基準など全くないということを意味します。
哲学者西田幾太郎氏も「善の研究(←古い!)」の中で、
「深く考えてみれば、世の中に絶対的真善美という者もなければ、
絶対的偽醜悪という者もない。」と記し倫理の相対性を認めている。
人生観や文学などに登場する「ニヒリズム」というものを皆さんはご存知でしょうか?
ニヒルはラテン語の「無」の意味で、虚無主義と訳されています。
すべてが無意味、無価値だから、何をやっても意味がないという人生観だが、
逆に何をやっても許されるという生き方、つまり「何でもあり」であるが故に
「何をやっていいか分らない」、そんな考え方のことです。
ドストエフスキーが「悪霊」を執筆する契機になったネチャーエフ事件のことを、
哲学者の梅原猛先生が紹介している。1869年に起きたネチャーエフ事件というのは、
ペテルブルグ大学の聴講生だったネチャーエフが「人民の裁き」という秘密結社を組織し、
現存社会の転覆を企てたが、同志の1人であるペトロフスキー農業大学生のイワノフが
脱退を申し出た時、密告の恐れありとして惨殺した事件のことです。
「悪霊」でネチャーエフに相当するピヨートルと呼ばれる人物は、
外国から革命思想を携えて帰国し、社会に深い憎悪を持ち、
この社会を転覆させることが歴史の使命と考えたのだ。
「神を信じなければ道徳というものはない。
従って、自分のやりたいことをやることが自分の善となる。」
こうした哲学的命題を自覚したピヨートルは、
「今の社会を転覆することが必要なのであり、そのための行動は善であるから、
その目的を遂行するためには何をしてもかまわないし、いかなる卑劣な手段も許される。」
と考えるニヒリズムの権化のような人物である。
ドストエフスキーは「悪霊」の中で、ピヨートルのような人物は、
崩壊した家庭、社会に対する怨念、そして倫理の荒廃の中から生まれてくると述べている。
実は、このような例は、日本にもあるのです。
例えば1972年に「浅間山荘事件」を起こして
日本中をテレビに釘付けにした連合赤軍の粛正事件。
連合赤軍は、京浜安保共闘時代に、二人の同志が脱走したとして処刑し、
連合赤軍キャンプ時代のメンバーの約半数に当たる12人を、
「反共産主義化」したことを総括する名目で集団リンチを加えて粛正し、
合わせて14名の仲間を殺害したことが判明している。
そう言えば、「浅間山荘事件」は映画にもなりましたっけ?
この事件も、目的のためなら手段を選ばないニヒリズムの結果と考えられる。
最近の例では、オウム真理教の事件は記憶している人も多いと思います。
1995年3月20日の朝、新興カルト集団の「オウム真理教」は乗客12名を殺害し、
数10名の重傷者を含む5500人を負傷させた地下鉄サリン事件を起こしたが、
これは麻原彰晃の心の怨念が引き起こした事件でした。
「オウム真理教」の教義が現実社会の徹底的な否定にあり、
麻原のハルマゲドンの解釈がキリスト教の終末論を殺人肯定の思想に変える結果となった。
つまり、自分達の目指すものを得るためには、
手段を選ばないというニヒリズムの思想が埋め込まれているのです。
戦後教育が平和と民主主義に特化し、倫理を等閑視してきたため、
日本の最高学府で学んだ秀才でさえも、「オウム真理教」の幼稚な理論に
疑問を抱く批判眼さえ持っていなかった証左であるし、人間は哲学科学の教育だけで
完成されるような存在ではないということも示唆しているのでは…?
オウム真理教の事件については、
「今の時代、人間の道徳心が変質しつつあるような気がする」という感想をもらす人もいた。
昨今、日本の教育現場でも子供たちの「道徳教育」ということは議論されているようですが、
「善悪の基準」を即答するというのは、大人でも意外と難しいのではないでしょうか。
はっきりした道徳がなければ、『自分のやりたいことを行うのが自分の善』であり、
いかなる卑劣なことをしてもかまわない。
いたいけない幼児や抵抗できない弱者を自分の欲望の犠牲にしたり、
暴力革命を夢見て仲間をリンチ殺人したり、サリンによる市民の無差別殺傷事件なども、
このような土壌の下に発生したものと考えられる。
古来から追求されて来た道徳哲学が、人間の倫理に確固たる基準を示せないで悩んでいるとき、
これに決着をつけたのは宗教だったわけです。