【善悪正邪の基準】

この論点に関しては、宮沢賢治の未完の作品に「学者アラムハラドの見た着物」
という原稿があることを、比較社会学の見田宗介先生が紹介しておりますので、
その一部抜粋から紹介してみたいと思います。
 
学者アラムハラドは、街のはずれの猫柳の林の中の塾で、十一人の子供を教えている。

ある日、アラムハラドは子供たちに、

「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」という質問をする。

するとまず、大臣の子のタルラが答えて、「人は歩いたり物を言ったりいたします。」と言う。

アラムハラドは「よろしい。よくお前は答えた。」と言うが、
さらに「お前はどんなものとでもお前の足をとりかえないか。」と問い返されて、
タルラは「私は飢饉でみんなが死ぬとき、もし私の足が無くなることで飢饉がやむなら
足を切っても口惜しくありません。」と答える。

アラムハラドは、あぶなく涙を流しそうになる。

つぎにブランダという子供が、

「人が歩くことよりも言うことよりも、もっとしないでいられないのはいいことです。」と言う。

アラムハラドは、「そうだ。すべての人は善いこと、正しいことを好む。
善と正義のためならば命を棄てる人も多い。」と言って、
セララバアドという子供を最後に指名する。

このセララバアドという子供は、
アラムハラドが特別に好きな子供で、この子が何か答えるときにはアラムハラドは、
<どこか非常に遠くの方の凍ったように寂な蒼黒い空を感じる>のである。

セララバアドはこのように答える。

「人は本当のいいことが何だか考えないでいられないと思います。」

アラムハラドは、ちょっと目をつぶる…。

多くの人の幸福のために、自分の身を犠牲にしても悔いはないという
自己犠牲の倫理を確認したタルラとブランダの答えに対して、
セララバアドの答えは、自己犠牲の前提になる善とか正義というもの、

つまり「何が本当にいいことであるか」を考えないではいられないというものであった。

この問の回答は、学者アラムハラドにも分からなかったし、
「学者アラムハラドの見た着物」という美しい短編を宮沢賢治が完成できなかった理由とも
考えられる『倫理の相対性』という大問題があるからなのです。

「倫理の相対性という恐怖3」に続く↓
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/36956437.html