皐月十五日 月曜日 快晴

今日は久しぶりに、十九番という食堂で昼食をとりました。

そこでの出来事ですが、
「美味しんぼ」という超ロングセラー漫画を読んでいたら、ある政治評論家が、

「私の政治評論なんて無意味なもんだよ、私がいくらこの国の政治を批判したところで、
 この国の政治が良くなるわけじゃないからね…」と働く気力を失っている姿が描かれていた。

あくまで漫画の話ではあるけど、これは万人に共通する話だなと感じた。

自分のやっていることに「目的意識が見出せなければ」生きてはいけない。
 
ロシアの作家ドストエフスキー著『死の家の記録』にこんなのがあった。

囚人に苦役を科し、土の山を別の場所に移し、
またもとの山に戻すといった仕事を繰り返させたら、
数日で首をくくって死ぬだろう、といっている。

これほど残酷な仕事はない。目的や意味があれば、たとえ苦しいことでも我慢する。
だが、まったく無意味なことを自分で知っていて、しかも努力することはできない。
それを強制されれば、ついに自分が自分自身に反抗するようになる。

これと同じような例ですが、
かつて、瀬戸内海の岩国で魚をとる人たちのニュースにこんなのがある。

岩国では汚染源の東洋紡の工場が、海でとった魚をすべて買い上げることにきめた。

明け方、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っている。
魚種ごとに魚の目方をはかったあと、工場にはこび、タンクに汚染魚を捨てる。
悪臭を放つ魚に、市場値の金が払われる。

はじめのうちは、取れば取るほど金になるので、精を出して出漁する人もいた。
が、やがて漁師たちの疑いがふくらんでくる。

毎日、海に出るのは、捨てるための魚を取るためではない。
金になりさえすればよいと、いつまでも割り切れるものではない。
たとえささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。

「何のための人生か。漁民だっておいしい魚を食べてほしいのだ」
「情けのうて涙が出ます」と口々に訴える声は胸をえぐる。(昭和48年6月16日。朝日文庫)

山口県岩国の漁師の苦悩は、胸に迫る教訓である。「生き方」「生の営み」は、
お金だけで解決できるものではない。目的があってこそ輝く。

ドストエフスキーは、シベリアの監獄に入れられた体験を踏まえ、
最も凶悪な犯人に、最も残酷な刑罰を与えようと思ったら、
無意味で目的のない労働を科すのがいちばんだ、と『死の家の記録』に書いている。

監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑を耕させたりしていたという。
強制労働であっても、その仕事には目的があった。

自分が働けば、食糧が生産され、家が建っていく。意味を見出せるから、苦しくとも耐えていける。

しかし、こんな刑を科せられたらどうなるか。

大きな土の山を、A地点からB地点へ移させる。汗だくになってやり遂げたあとで、
その土の山を、最初にあった場所Aへ再び移動させる。
それが完了したら、またB地点へ……。
こんな目的のない無意味な労働を、毎日、繰り返し強制されたらどうなるか。


受刑者は、四、五日もしたら首をくくってしまうか、
死んだほうがましだと考え、やけをおこして破滅するだろうと、ドストエフスキーは言っている。

人生もまた同じか…。

まったく意味のない苦労を、だれが、続けることができようか。

目的のない苦労など、バカバカしくて、やっていられなくなる。

どんなに苦しく、長い坂道であっても、「人生の目的」さえハッキリしていれば、
耐えて生き抜くことができるはずだ。