社報9号より抜粋「人を神として祀る伝統」

日本にはすぐれた先人を神として祀るという伝統があります。
もっともだれもかれもみな祀るとなると、これは大変ですから、
その中でも特にすぐれた人、立派な業績を残した人を神として祀っているのではないかと思います。

日本の各地を旅行しますと、いたるところに神社があります。
その多くは、いわゆる神話、伝説の中にでてくる神さまを祭神としていますが、
またその土地土地のすぐれた先人を祭神としている場合も少なくありません。
たとえば、水戸の常盤神社は黄門漫遊記でも有名な名君徳川光圀を祀ったものですし、
仙台の青葉神社は伊達政宗を祭神としており、
そのように各地に、その土地のすぐれた領主を祀った神社があります。

もちろん領主、名君だけでなく、万葉の代表的歌人柿本人麻呂を祀った柿本神社や人丸神社、
治水などに功績のあった人々を祀った岐阜の治水神社や福岡の大堰神社であるとか、
明治維新の先覚者高山彦九郎を祭神とする高山神社、
さらには、二宮尊徳とか佐倉宗五郎のような、
農民、庶民の中で人々のために尽くした人を祀ったところもあるわけです。
そのように、すぐれた人、世のため人のために尽くした人を神々として祀っているのです。

キリスト教をはじめとする一神教では、
人が神になるなどということは絶対にない。
創造主である神は唯一絶対であり、神とその創造物(自然や人間)との間は隔絶されている。
だから、死んだ人の霊は神の導きで天国に行くということはあるが、
あくまでも人間の霊のままであって、
どんなに徳を積んだ人間でも、霊力の高い人間でも神になることはない。

それに比べて日本では、もともと神と自然と人間の間は、
ほとんど一体といっていいくらいに連続している。
神は自然そのものといえるし、人間も自然との調和のなかに生き、
その意味では神々に囲まれて暮らしている。
だから、日本では昔から死者(先祖)の霊は生きている人の身近な自然のなかに住み、
常に子孫の生活を見守るという形で存在すると考えられてきた。

もちろん、それは、日本における神の考え方が正しくて、
外国の場合はまちがっているということではありませんし、
どちらがいいとか悪いとかいうものではありません。
それぞれの国家、民族によって、神についての考え方が異なっていていいと思うのです。
例えば、全智全能の絶対的な神というものを考え、その神の心をわが心とし、
その教えにしたがって自らを律し、高めつつ、共同生活を向上させていくというようなことは、
それはそれで大いに好ましいことだと思います。

ただ日本においてそのようにすぐれた先人を神として祀っているということは、
そういった先人の知恵なり業績、いいかえれば代々の衆知に学び、
それを現世に生かすという意味をもっているのではないかと思われます。

その時代において師表とあおがれた人、国家に対して功労のあった人、
あるいは世の人々の幸せに貢献した人などをそれぞれ神として祀ったり、
あるいはさまざまの仏やいわゆる祖師といわれる人々を仏寺にまつって、
そうした神社仏閣に折々に参詣したり、あるいは年中行事として季節季節にお祭りをして、
みながそれに参加するというようなことを、日本人は昔からやってきました。

このような姿は、見方によっては、
そこに祀られたすぐれた人々の業績をあらためて考え直し、それにあやかるといいますか、
それを自分の人生なり共同生活運営の教え導きとしている姿だともいえましょう。

つまり、すぐれた人を神に祀ることによって、
そこに一つの理想を描き、それを手本ともし、目標ともして、
自分を、ひいては共同生活を高めていこうとしたのだと思います。

ですから神社仏閣なり、お祭りといったものの本来の意義は、そのようにすぐれた先人を敬い、
その魂をなぐさめるとともに、その人々の知恵をわがものとしてとり入れ、
それを共同生活に生かしていくところにあるのではないかとも考えられるわけです。
それだけに、お祭りいうものは、
古来日本人にとって、きわめて重要な行事の一つになっていたのでしょう。