上の子、中学校入学。

下の子と写真を撮ることになった。

 

満足に写真が撮れるようになったのかー

感慨深い。

 

下の子のお宮参りの家族写真のことを思い出す。

私は下の子0歳を抱っこし椅子に座り、

旦那と上の子2歳半は立って撮影・・・のはずが。

 

上の子、ちっともじっとしていられない。

写真が撮れない。

ちなみに撮影は子どもの記念写真に定評あるスタジオ●リス。

プロがやっても、良い写真が撮れない。

 

じっとしていられないので旦那が上の子を抱っこして座ることに。

それでも足をじたばた、正面を向けない上の子。

安心するよう電車を握らせて撮影に挑戦。

上の子、目の前に電車を何往復も走らせてうなり始める。

いつもと違うことをさせられて、不安だったんだろうなぁ・・・

今ならそれが分かるけど。

当時の私は、息子の行動も存在も、恥ずかしくて仕方なかった。

 

何枚撮影しただろうか。とにかく早く終わってほしい、地獄の時間だった。

撮影する人も通常とは違う何かを感じながら撮影してるんだろうな・・・とか、

普通の子ならここまで苦労することはないんだろうな・・・とか、

発達障害の子どもを持ったことで自分しか味わわない、

屈辱なのか羞恥なのか、

とにかく居たたまれない時間。

 

家族写真なんか、二度と撮るものか。

 

ようやく、何とか、1枚だけまともな家族写真を撮ることができた。

我が家ではそれを「奇跡の1枚」と呼んでいる笑い泣き

 

今の私から思えば、

まず写真なんか撮影しなければよかったのだ。

「誰もがやるから」家族写真を撮ろうとしただけだし。

うちはそんなのやらなくていいよ、で、やらなければよかった。

上の子はじっとしていられない、ならば撮影しなければよい。

「家族写真を撮らなければならない」

「全員で撮らなければならない」

「良い顔で撮らなければならない」

良い家族のイメージに、私と旦那がこだわりすぎていた結果だ。

 

上の子の「できない」に直面するたび、常に諦めてきた。

でも、成長すればできるようになった。

もちろん今もできないことは沢山あるけど。

少なくとも、二歳半ではできなかった、家族写真は問題なく撮影できた。

二歳半の当時はできないなら、やらなければいい。

できるようになってから、やればいい。それだけ。

 

最近、ようやく昔の辛かった時代のことを思い出せるようになった。

家族写真なんか二度と撮るものか、と思ったことも。

上の子が憎くて仕方なかった。

上の子は見た目はイケメンと呼ばれる部類です。

(ASDの子は見た目が良い子が多いみたいですね)

でも私には醜く見えて仕方なかった。

私の理想を全て壊す怪物みたいに思えた。

 

自分の理想の「幸せ」の定義を捨てて、上の子に沿った家族像を作っていれば

ここまで上の子を嫌いになることはなかったのかな。

でも、じゃあ私の幸せはどうなるんだろう?

何のために子どもを産んで、苦しんでいるのだろう。

 

正直「そこまで上の子に配慮してられるか」と思ったし、今も思う。

親だから無償の愛を子どもに注がなければならない、とは思っていない。

愛情をかけるのも、相互関係がないと続かない。

親は子どもをサポートし、ケアする。子どもは親に親愛の情を表す。

その相互関係がない子育ては本当に苦痛だ。

だから、

抱っこも拒否されるし目も合わない、

母に興味を示さず電車で一人で遊んでいる、

ASDの子どもを育てるのは私にとって苦行だった。

一方的、無償な愛情なんてありえないです。

原動力は「何とかしなきゃ」という責任感だけ。