新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく。
今朝、近所の高架橋のところに初日の出を見に出かけました。
最初の瞬間から太陽がよく見えていました。
空気が透明すぎない、ちょうどいい感じだったんです。
澄みきった空気のときは、日の出の瞬間からもうまぶしくてまぶしくて。
きょうはまだ少し見ていられました。
きょうは世界中で、新年の画像がアップされているんでしょうね。
日中、散歩していても、空気が和んで感じられるのは、
気温がちょっと上がって寒さが緩んだということだけじゃなく、
なんとなく人の気持ちもゆったりしているからじゃないかな?なんて思いました。
お正月。
新しい年。
今年はこれまでとは全く違う年になります。
もっと自分のことを知って、もっと生きなくては、という感じです。
そのためには、ふわーっと広がるイメージ、
大勢で楽しく、わいわいと作り上げるイメージ、
大好き!っていうイメージや感触、
そんなフィーリングと繊細に付き合っていくこと。
うまく言えないけど、そんな気がしている年明けです。
あたたかい日向を散歩していながら、なぜか急に悲しくなってみたり、
ゆらぎながら、生きています。
じっと、耳を、目を、ココロを澄ましていくと、
小さな小さな芽吹きに気づくんだな、と思えるこのごろ。
でも、うっかりと力で押し切ると、その小さな芽は潰れてしまう。
そっと、そっと。
そっと動く。
そっと、そっくり全てを受け止める。
そっと、無理に力を加えないようにして、寄りそう。
そんなことがなかなかできない自分がいた。
だから平気なつもりで、平気なふりをしているうちに
だんだんと気づかなくなるんだ。いろんなことに。
さて、それを見直すんだ。
今までのココロのクセで同じような上書きをしないようにね。
クセが極まって、ロボットになっているその回路を発動させないように
そっと、そっと。
思考すら止めて、ただ受け止める。
冬のお散歩では、枯れた風景が目に入ります。
華やかな春や、鮮やかな秋の風景とは全然違う侘びた世界が広がり、
虫の声もしない、静かな空間が広々と広がっています。
とくに私の住んでいる関東地方は、冬は乾燥した晴天が続くので、
ことさらそんな風景なんだと思います。
雪国などでは、また違っていますよね。
一見、あまり見るもののない殺風景な中に、実は面白い発見がいくつもあるので
冬も散歩は楽しいです。
道端の草たちも、霜にあたって夏とは違う様相。
大きさも色も、形状も変えて、寒さをやりすごしています。
川には冬鳥たちが群れています。
1年、四季という巡りの中で、大きなリズムが行きかい、
螺旋のように次の段階へと進んでいくのかな、と思います。
だから、1年中、いつもいつも同じリズムということはあり得なくて
風のように、呼吸のように、ゆらぎ、動き、流れるのは
私たち人間も同じでしょう。
ということで、赤水晶の画像を実験的にこちらへアップしてみました。
数日、太陽が顔を見せない埼玉地方ですが、夕方になってどうやら雨もやみました。
寒い時期には太陽の光、ありがたいです。
暖かさは即、循環につながると思います。
カラダがあたたかくないというのはつまり、循環が悪くなっているということ。
カラダの循環が弱くなっていると、それは脳の循環も悪くなっていて、
ココロの循環も落ちて、潤いがなくなってきてしまうと感じます。
そうなると、いろんなことがへたってきちゃいますよね。
そんなの、イヤです。(笑)
あ、笑うのはあたたまるよい方法。
そして、こんなレッドクオーツも、温めのサポーターなんですよね。
東京は初雪。
みんなで、あったかくなろ。
花は開きつつあるときはもちろん美しいのだけど、
枯れていく花もまた美しいと思うんです。。と言っている花屋さんがいました。
先日テレビでちょっと見た、オランダの花屋さんです。
オランダは花の国を誇り、いつでもどこでも花、花、花。
枯れていく花が美しいと言った花屋さんは、花の全てを愛しているんでしょう。
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「その扉を開いて、無事に生きて帰ったものは誰もいない。」
そう言われて、あえて扉を開きますか。
え、それはヤバイからやめておこう、と思ってしまいそうだけれど
そんな扉の前に立ち、開く自分もいそうです。
開いたら最後、みたいな言われ方をすると、
すぐに想像するのは、
きっとその扉の向こうにとんでもないものがあるってこと。
とんでもないものって、何だろう?
おそらくは、
危険なもの、恐ろしいもの、醜いもの、悪、
自分の価値観とは正反対のもの、
とにかく、自分を破壊しないではおかないだろう何か。
そんなことを思ってしまいました。
ああ、でもそこで思いましたよ。
なぜ、私、
ほとんど自動的にそういうイメージを持ったのか。
そこがそもそも問題なんじゃないだろうか。
そういうネガティブなイメージで開いたら、
扉の向こうにあるものは
本当にそういう姿になって出てくるんでしょうね。
何があるか分からないのに
あえて持ってしまうイメージ。
そこに自分が見えるんでしょう。
そして、醜悪なものと出会う。
では、出会ってしまったら、それを見つめてしまおう。
じっと、じっと。
淡々と。
そうしていると、なんだか、
いろいろなものが
すーっと溶け去っていくような気がします。
すーっと音をたてて。
いよいよ今年もあとひと月、という言葉をあちこちで見かける季節。
気ぜわしい師走、ということだけれど、気ぜわしくしているものっていろいろあるね。
お正月、新しい年が近づくにあたり、やはりこれまでのこと、これからのこと、
見直したり、片づけたりと、ふだんよりも意識するわたしたち。
大掃除もあって、どんどん捨てて新しくなっていく。
捨て去ることが得意な日本人、水に流す文化、
いつまでもこだわっていることは、潔さ、粋なふるまいとは正反対のもの。
潔く、粋であることは
瞬間ごとに流れていくものを繊細にとらえ、とどめ置かないという価値観かも知れない。
とどめ置かない。
いや、実際には、とどめておきたいと思うどんなものでも
とどめておけるものなんか、何もないのだ。
ゆらぎ、流れ、過ぎ去る。
確固たるもののないわたしたちの世界。
美しさとは、流れ、巡り、とどまらないことにあるんだと思う。
だから今の瞬間をていねいに過ごすことが大事なんだと思う。
だって、次の瞬間にはもう全てが変わってしまっているから。
二度と同じ瞬間を体験したり、やりなおしたりはできないから。
丁寧に、と今年はなんども思った。
丁寧に、と思うのに、どんどん流れる激しい変化にあたふたして
丁寧さを欠いている自分、というのも見た。
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ゆっくり、じっくり本を読みたいと思っていても、なかなかその「ゆっくり」を実行する勇気が出ない。
こんなことしてていいんだろうか??という気持ちがいつも背後にあるんだ。
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文章を読むのは、例えば電車の中、お昼休みでお茶を飲んでいるとき、
そういう時間が意外と集中できたりする。
それなのに、もっとゆっくり時間があるようなときに集中できないのは不思議。。。
いや、そうなんだ、不自由な枠組みの中でこそ、迷いが消えるんだ。
電車で移動中なら、ともかくも目的地に着くまではそこにいなくてはならない。
だから、本をゆっくり読んでいてもいい、つまり他にできることはそうそうないから。
お昼休みも時間として決まっているし、他に緊急の用がないかぎりは
時間までできることは他にそれほどない。
そういう枠組みの中で、迷わないでいることが集中力を上げているということね。
全くの自由時間だったら、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、
今、これをやっている理由はなんだろうか、優先順位はこれでいいか、
自分で決めて、選んで、やることになる。
この部分で、自分で決めたはずが「これでいいのかな?」とゆらぐ。
これが自由の「怖さ」なのかも知れない。
自由なのだから、自分で決めればいい。
しかし、その「自分で」の根拠がよく分からなかったりするんだな。
さあ、きょう、今、やっていることは何だろう。
自分はどこへ行きたくて、どうしたくて、どうありたくて道を歩き、
今どこにいて、どっちを向いていて、
今やっていることがそれに対してどういう意味なり価値なりを持っているんだろう。
こういう疑問がわくね。
でも、答えが来るとは限らない。
瞬間ごとに問うことを続けるしかないのかもしれない。
間違ったらヤバイ。間違ったらどうしよう。
間違ったら。。。
そういうふうな恐れ方をしすぎだから、
早急に「正しい」答えがほしいという気持ちに駆り立てられるんだね。
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自分が何者でもない(=無限の可能性あり)なら、
そんな自分に対する「正しい」答えもないはず、かな。