幼い頃の寂しさ悔しさが消えないのは私の器の小ささの問題か。
母が毒親として私に君臨していた頃のことを介護が辛い時に思い出す。
例えばお金が無いからと姉と弟は大学に進学させたのに私だけ就職させられたこと。
もっとさかのぼれば小学生の頃に友達との誕生日会をしてくれなかったこと。
友達のお誕生日会に呼ばれてもプレゼントを買うお金をくれなくて私だけ手作りでガッカリされたこと。
いたたまれなくて途中で帰ったけど。
友達と遊びに行くお金もくれないからプールとか皆んなで行けなかったこと。
もっともっとさかのぼればオネショが治らずに記憶に残る幼稚園の頃から両手両足を着物の腰紐で縛られてハタキで散々叩かれてから真っ暗な物置に父が帰る前まで閉じ込められていたこと。
小学生になったらオマケに布団ですまきにされて上から乗られて息も絶え絶えになってるのに顔を殴られ続けたこと。
殴る時は必ずほうきやはたきやハンガーで殴ること。
私の目の前で弟だけにジュースやオヤツを与えて欲しがる私をいつも怒ったこと。
「弟は抱きしめて大事に育てたけどアンタは手がかからない子供やった。」と記憶を塗り替えて私に喋る母。
手がかからなかったんじゃなくて、手をかけなかったことを母は都合よく忘れてる。
「大学進学を勧めたのに行かないと言うたんよ。」と夫とビールを飲みながら嘘八百を並べたてる母。
本当に目が点になってしまって「嘘ばっかり言わんとて!」と言い返した。
大人になってからやっと母に言い返せるようになった。
私が生まれる1年前に男の子を死産した母から、「すぐに妊娠した私を男の子の生まれ変わりと思ってたら残念ながら女の子やでガッカリしたわ。」と何度も聞かされて育った。
「お父さんもガッカリして病院にも来なかったんやから。」って本当かどうか知らんけど、幼い頃から聞かされ続けたからいらない子としての自覚だけは心の中に植え付けられた。
おかげでオネショが高学年まで続いたんやろなと今なら思う。
あの頃にリハビリパンツさえあれば、あんなに殴られ蹴られ縛られすまきにされることもなく済んだのになあと、リハパンもパジャマもシーツもカバーもウンコまみれにする母が私に殴られずに済むことに理不尽な思いがした。
一姫ニ太郎で良かったのにと言われ続けた私が母の介護を一人で担うことになり、自由に生きた姉と弟は母に近寄らない。
まあ弟は母の自慢の海外駐在員やから仕方ないけど母には電話すらかけてこない。
半身麻痺になっても車椅子になっても、私の娘達や私の孫が笑顔で母に会いにやって来るのに。
私には頭すら下げない母が孫達に物を頼む時は「ごめんね。」とお願いする。
私には指さしをしてアレコレと伝えるのみ。
支配していた頃の記憶がきっと母の中にあって、私は従順に従うと思い込んでるんやろなあ。
デイサービスの担当者には私が優しいから母に同居を申し出たと母から聞いたと言われた。
「私が優しいからではなく、でもいきさつは言いたくないので色々と事情があることを察して頂けたら。」
老いさき短い母の悪口をあれやこれやと伝えたくは無いけど事実は曲げたくない、そんな気持ちで伝えた。
病院から追い出される期日が迫るまで泣き喚いて施設を拒否して、仕事を持つ私に毎日泣きながら電話をかけて見舞いを休ますことをしなかった。
熱で行けないたった一日に鬼電をかけられて代わりに行ってくれた夫に娘をこさすようにと伝言して夫を帰した母。
病院の中で「家に帰せ‼︎」と怒鳴り散らし看護師や介護スタッフにも泣き喚き、「施設は無理ですね。」と言われて仕方なく施設が見つかるまでと同居を始めたら、仕事と介護の両立で睡眠不足が続いて三年目に倒れたのに、母から「ごめんね。」すら聞けずに仕事を辞めざるをえなかった。
申し込んだ特養からは7年過ぎた未だに連絡がない。
私はなんで母親の介護をしてるんやろ。
「死産した男の子が生きてたらアンタは生まれてないんやで。」
感謝しろとばかりに恩着せがましく何度も言ってくる母。
死産が及ぼした心の痛みで私に辛く当たってきたんやと母を気の毒に思う気持ちがあるから、母を見捨てることが出来なかったのかもしれない。
ウンコのこびりついたパジャマを洗いながら今日はしみじみ悲しくなった。
家族が面倒見てると特養の空き待ちが後ろ後ろに回されるらしいけど、緊急性は独居の高齢者家庭ばかりではないはずと心が荒む。
週末以外は睡眠不足が続くのに、代わりがいない家庭にも順番が早く来るといいのにな。