1.札幌遠友塾自主夜間中学

平成二年(1990年)四月二十九日、結成式・開校式

平成八年(1996年)十一月三日、夜間中学全国大会での活動報告から次に載せます。

(1)札幌遠友塾の歩み

明治二十七年から昭和十九年まで札幌で五十年続けられた「遠友夜学校」の精神を、そして本当の学校を求めて、札幌遠友塾自主夜間中学が生まれたのは、一九九〇年四月。

「学ぶことが、生きることのあかしと喜びになる」をスローガンに、七年目をむかえている。

毎週一回水曜日の夜、市民会館三階を借りて授業が行われている。科目は、英語・数学・国語・社会(中学一年程度まで)そして歌とホームルームがある。行事としては、遠足・クリスマス会・卒業記念パーティ―を年一回行い、おおいに楽しんでいる。

 修業年限を三年と決めているが、希望で何年でも学べる。募集は毎年春に新聞紙上で行う。受講生数は三学年で計百名程になる。講師と運営委員は約四十名、一斉授業を基本としながらグループと個別の学習をおりこむ為、講師・運営委員の連携プレーがきわめて大切になる。

 今まで遠友塾卒業者八十六名のうち、九名(小中学校未修了者含む)が定時制高校に進んでいる。また、同窓会もつくられ、遠友塾五周年記念の集いを実施したり、旅行会を行い、遠友塾での人と人のつながりが絶えることはない。

 今年の新規入学者は五十八名であったが、員数の制約(会場・受け入れ体制)から四十名とし、残りの人は来年度に回ってもらわざるを得なかった。内訳は義務教育未終了・義務教育形式卒業(高等養護学校卒含む)・外国人であり、年齢は十九歳から七十五歳(全学年では十四歳から八十歳)と幅広く、五十歳以上の女性が多い。中には、通学に片道六時間もかかる遠隔地から入学した方もいる。また、読み書き不自由な方も、学び始めてから、人に手紙を出せるまでになってきたが、くじけそうな気持ちを励まし続けた委員の努力がポイントになった。

 財政は、賛助会員百二十名の援助と、受講料月千五百円(2009.4.1から千円)で全てを賄っている。また、月一回の運営委員会で全ての連絡・相談・決定を行う。この他に事務局会議と教科会議が随時行われる。

(2)現在の課題

①     多人数の受講生の多様な学力に対して、どのような内容のどのような形態の授業がいいのか常に悩むところである。

②     運営委員と講師の絶対数の確保は、時に綱渡り状況となる。

③     公共の施設を、長期間借りていく困難さが増大している。

④     病気で来られなくなる受講生も多いし、委員も過去に、四十代の方二人を病で失っている。年配の受講生と、運営委員・講師の健康維持も大きな問題となる。

(3)将来の課題

  札幌遠友塾は、今後とも自主夜間中学の道を行く社会(学校)教育団体である。その将来的な運営形態をどうしていくのか、はるか彼方の問題として常に存在し続ける。また、この広い北海道の中で、札幌以外の地で夜間中学の取り組みがない問題も大きい。 

(初代代表 後藤鎭義 二代代表 工藤慶一 三代代表 井上大樹)

さらに、その後の動きを見ていくと、

 平成二十年 四月から自主夜間中学旭川遠友塾始まる。

 平成二十一年 四月から札幌遠友塾 向陵中学で授業開始。

 平成二十一年 自主夜間中学函館遠友塾、釧路自主夜間中学「くるかい」の活動開始。

 平成二十一年 九月二十日 札幌遠友塾二十年の集いが札幌市の教育文化会館で開催。

 平成二十二年 七月八日見学。ほとんど変化はありません。変わったところ「じっくりコースの開設」「3年生の行事に社会見学実施」「四つの遠友塾をまとめた北海道自主夜間中学を作る会できる。代表工藤慶一」でした。今後の課題は遠友夜学校の精神をどのように受け継ぐかでしょう

2.平成遠友夜学校 (岡本敏博氏から二○○五年十二月五日FAXで教えて頂きました)

 平成五年四月開校。毎週火曜日十八時から北大遠友学舎で行う。この紹介文の初めに次の文があります。

   遠友夜学校の精神をしのび、現在学生たちが、学生生活を通して学んだものを市民に紹介するという形で、社会貢献したいという彼らの気持ちに市民の皆様のご協力をお願いいたします。市民の皆様と学生たちの双方の学びの場となることを期待しております。

 基本的に学生・大学院生が中心となって市民の方に講演します。

 時々大学教員が講師として参加します。

 したがって、運営の主体は北大生と北大の教員です。

 だれでも参加(入学)できます。

 自由に、来れる人が、来れる時に、来てくれればよいのです。

 特に参加の予約は要りません。

 受講料は無料です。生徒会費は徴収しません。

 お茶代も徴収しないことを原則とし、金額自由、無名の寄付でまかないます。

 講義は約一時間から一時間半、後は自由な雰囲気で話せるお茶時間を設けます。

十八時講義スタートで最大延長二十一時。

校長 藤田正一(北大博物館館長・獣医学部教授)

教頭 尾崎由博(獣医学部学生)他学生何名かが教頭陣となる。

平成二十二年度も続いております。開始時間が六時半からと変更はあります。

 2010.7.20見学。大きな変化はありません。参加者は署名し、名札をつける。今夜は「コンピュ-タ-」のお話でした。最後に北大寮歌「都ぞ弥生」校長の音頭で歌う。今後の課題は、遠友夜学校の精神をどう受け継ぐかでしょう。

 

3.北海道遠友夜会(平成十五年五月十三日朝日新聞から)

 北海道遠友夜会明日五回目会合―札幌時計台ホール―

 思想家新渡戸稲造(1862~1933)の精神を現代に引き継ごうと設立された「北海道遠友夜会」の会合が十四日午後六時から、札幌中央区北一西二の札幌時計台ホールで開かれる。上原美都男道警本部長が「北海道の安全で安心な街づくりについて」と題して基調講演し、参加者と意見交換する。入場無料。参加者は住所氏名連絡先を明記して同会事務局までファックス(011・763・1377)で

こちらへ電話すると「今は活動していない」とのこと。FAXで活動内容・沿革等聞きたいと書いて送りましたが返事がきませんでした。

 

4.赤レンガ遠友夜学校 『北海道暮らし』第15号の巻頭コラムで沖田波平氏が書いています。今どうなっているのでしょうか。この本は北海道文化室が発行し、平成八年十二月二十日発行日になっています。道庁の文書館・環境生活部くらし安全局道民活動文化振興課でも聞きましたがその資料は無いとのことでした。これをお読みの方で知っている人はお知らせくださればうれしいのですが・・。

研究追記七 遠友夜学校校務担当教師氏名について

『遠友夜学校』(81ページ)と『思い出』(247ページ)によれば昭和十二、十三年度の会計 桧垣隆興の「桧」の文字が後者では「檜」になっているだけであとは同じです。「檜」が正しいです。当時の月次会という先生方の会議では出席者が自分でサインするのです。庶務日誌(昭和十年~十二年)には檜垣隆興とサインしています。

大正十五年四月の新学年教務日誌を見ているとき

「四月十日午後六時半入学式擧行 新入学者多数

各部主任係り決定

  庶ム係り(兼備品係)山下勉君

  會計        原田英一君

  教務        髙井泉 君(ほか二名)計三君」

に気付きました。

 上の『遠友夜学校』及び『思い出』では

庶務 原田英一 、会計 山下勉、 教務 空白

となっているからです。庶務・会計が逆の氏名と教務の空白が疑問です。

参考までに大正十四年度の教務は髙井泉になっております。昭和二年度の庶務は原田英一、会計は髙井泉となっております。

 

 

研究追記八 五藤精知発見

 発見場所は遠友魂第十三卷第一號(昭和十六年十一月二十日発行)です。第二部第六章、七章の石谷類造と河合惣吾のお手紙にも書かれておりました。精知氏は昭和十三年から十六年まで教務と庶務の役についております。本人と奥様からお話が聞くことができなかったので、気になっておりました。この號の編輯後記に次のように出ています。

 

私が夜学校へ來た昭和十二年以來唯々一度「遠友魂」と「ポプラ」を頂いたのみでその後永く文藝誌の発行が中止されてゐた。それには経費の関係や、紙の不足、配給の不円滑もあったらうが、幹事や教師に熱情の不足してゐたことが最も大きな原因であった。私が幹事諸君と本誌復活につき相談を始めたのは丁度一年前になる。幸ひ熱心な幹事諸君の快諾により本年始めから準備は着々進められ、原稿募集も発表された。所が不幸、原稿の集まり悪く、七月の発行が延期に延期されて遂に年の暮近くなって了った。併し殆んど盡く幹事のみの手によって編輯、印刷が行はれ、兎にも角にも発行の運びとなったことは我々には喜びに耐へない。恐らく粗漏も多いことであらう。作品の選擇にも意に満たぬ所の多いことゝ思ふ。併し復活再刊に対する我々の努力も買って頂けることゝ思ふ。次の問題は此の育成である。立派な作品で本誌を発展させて行って頂きたい。此には全校教師・生徒の本誌に対する熱情を絶対に必要とする。

復活再刊に當り熱心に指導された田中監事先生、大沼、萬豆、永野、野坂其他の幹事諸君は勿論、玉稿を賜った諸先生、生徒諸君等に対し深く感謝する。(五藤精知)この號に本人も原稿を載せております。題は「十勝の馬」です。