研究追記三 水上友治氏の手紙から

 先生の手紙中に「・・・一時庶務の仕事を・・・」とありました。

 『遠友夜学校』(81ページ)や『思い出』(247ページ)の遠友夜学校校務担当教師氏名の欄には昭和四年、五年の会計に載っておりますが庶務には載っておりません。しかし、札幌遠友夜學校學期報『遠友』の昭和五年十月発行三ページの庶務報告の昭和五年四、五、六、七月分の報告の最後に(水上)とあります。また同じく『遠友』昭和六年元旦発行の二ページの中に庶務報告として九、十、十一月十四日の後に(水上)とあります。さらに十一月三十日(日)の最後のところに「・・・尚本日を以って前庶務水上氏は現庶務廣瀬氏と更迭す」とあります。その続きの十二月庶務報告の最後に(廣瀬)とあります。それで、庶務は昭和五年の四月から十一月までは水上友治先生、十二月から翌年三月までは廣瀬正義先生が担当となります。廣瀬先生は昭和六年度も庶務を担当しています。上記の本の資料としては水上先生の八ヶ月の会計との兼務をどう考えるかでしょう。

上記の本の資料を直すとすると、

 昭和五年度庶務 水上友治・廣瀬正義 会計 水上友治が正しいようです。

 

 

研究追記四 遠友夜学校の校歌の作曲者は誰か?

 この問題で元教師・元生徒にお聞きしましたが分りませんでした。山田昭夫氏によれば作詞は有島武郎、明治三十一年、二十一歳の時です。札幌農学校生でした。(『遠友夜学校』より)北大校歌をネットで調べてみると、

  北大校歌「永遠の幸」の歌詞は大和田建樹が校閲したため、作詞者の欄に有島とともに併記されることもある。有島が作詞したのは1900年(明治三十三年)頃であり、1900年に行われた創立二十五周年に年祝賀会で歌われたとする資料がある。当時有島は農学校の学生であったため、現在でも校歌作詞者を記す時には「有島武郎君作歌」というように君付けで表記されることが多い。

 北大の校歌の曲は米国人作曲家ジョージ・F・ルート(George Frederick Root)が1863年につくった“Tramp!Tramp!Tramp!”が原曲。この曲はアメリカ合衆国が南北戦争の時代に北軍の行進曲として歌われ、南軍でも歌われていた。また、歌詞を変えてアイルランドでも流行した。南北戦争後、米国の各大学でも学生歌に用いられていたものを納所弁次郎が選曲したといわれている。またこの原曲はキリスト教の讃美歌にも使われ、日本においては、日本福音連盟『新聖歌』(2001年版)の186、救世軍歌(1997年版)の108番などその例が見られる。

 遠友夜学校校歌をネットで調べてみると、

 作詞は有島武郎、曲の方は米国人作曲家ジョージ・F・ルートが作ったTramp!Tramp!Tramp!が原曲である。「オー 否 否 否」と三回繰り返すフレーズがあって有島武郎の作詞の定形を見るようである。

 以上のことから、両校歌はほぼ同じ時期に有島武郎が農学校の学生の時に作詩され、曲は、また元教師・元生徒他からは賛美歌調と言うことが語られており、Tramp!Tramp!Tramp!の原曲またはその編曲として校歌に採用し普及したものと思われる。

 

 

研究追記五 その後の遠友夜学校

 『遠友夜学校』の86~103ページ 2遠友会のあゆみ の中で鈴木良雄さんが次のように書いています。(概略ですが)

 昭和二十四年四月、遠友夜学校に在学していた生徒、指導していた先生方が中心となって札幌遠友会の組織をつくることを決議した。

 昭和二十九年三月八日、札幌遠友会準備世話人会、四月二十七日、第一回遠友会総会、そしてこの会で決まったことにもとづいて、次々と活動された記録が載っております。

 昭和四十八年四月、「遠友市民大学」が発足、その後八年たち、十七期開講中である。

 これが実現の暁には、新渡戸博士の精神による教育が現在に引きつがれ、文化都市札幌の誇りとして生かされていくこととなる。さらに充実、発展していくことを深く祈念してやまない。これまでは上記本の中で述べられておりますが その後どうなったか、 

 

 昭和五十七年四月十九日(月)北海道新聞《?》朝刊によれば、奉仕こそ夜学校の原点という見出しで、明治二十七年(一八九四年)新渡戸稲造が札幌市内に創設、以後五十年にわたって続いた貧しい人たちのための夜間学校「遠友夜学校」の伝統を受け継いで四十八年に発足した「遠友市民大学」(髙倉新一郎学長)が、十年目を迎えた本年度から、受講料無料で再スタートする。「北大関係者らの奉仕によって支えられていた夜学校の原点に戻ろう」と、無料化を決めたもので、まず二十日から、「絵画実技講座」が始まる。

遠友夜学校は「貧家の子弟、労働する子弟に対する夜学校教育」を目的に、当時札幌農学校教授だった新渡戸稲造が、現在は中央勤労青少年ホームの建っている札幌市南四東四に創立した。新渡戸が明治三十年に離札したあとも、半澤洵、有島武郎をはじめとする北大の教官や学生らが後を受け継ぎ、貧しくて学校に行けない少年少女や成人に、算数、作文などの普通学科や、看護法、礼式などの実用学科を講義。昭和十九年に閉校するまで千人を超える卒業生を出した。

遠友市民大学は、遠友夜学校の理想と伝統を受け継ぐ市民教養講座として四十八年にスタート。これまで十八期にわたって開校され、思想、芸術、文学などの講座を開いてきた。

大学の運営費は、これまでずっと生徒の受講料で賄われてきており、たとえば昨年度は一コース四千八百円を徴収した。しかし、関係者の間からは「これでは現在市内でたくさん開かれている文化・教養講座と変わらない」という声が上がり、本年度からは、すべて奉仕活動に支えられていた遠友夜学校の原点に戻るため、無料で講座を開くことになった。

 第十九期は二十日から、とりあえず「絵画実技講座」一コースでスタートする。講師は北大農学部の助教授で黒百合会の顧問も務める八鍬利郎さん。無料奉仕の形だが「有島先生が黒百合会の創始者という縁もあることですし、お引き受けすることにしました」と語る。講座は、九月まで毎月一回午後六時から、札幌市中央区南一西一、札幌東ビル地下一階、喫茶「銀巴里」奧の会議室で開かれる。定員二十人で、二十日午後五時半から同六時まで、会場で受講申し込みを受け付ける。

  本年は一コースだけで、やや寂しい内容になったが、同大学運営委員会では、とりあえずスタートさせて、これから関係者の協力で講座を増やしていく考え。渡辺明信同大学文化局長は「夜学校の先生と生徒のつながりも、奉仕という形でこそ生まれたもの。遠友市民大学も原点に戻って、夜学校の精神的遺産を受け継いでいきたい」と話している。

 

 遠友絵画サークルのお約束 

一、遠友絵画サークルは遠友市民大学の絵画講座(北大農学部八鍬利郎先生ご指導)を

母体として昭和五十七年十月に結成された絵画グループです。

二、上手下手は別として絵を楽しむ仲間が集い、自然と語らい自然と親しみつつ絵画を学んでゆくことを目的とします。

三、サークルを運営するため、代表一人と世話役若干名をおきます。その任期は一年とし、再任をさまたげません。

四、毎年四月に総会を開き、代表、世話役の改選と一年間の会計報告、並びに活動方針を決めます。

五、会費は年間四千円とし、四月と十月に二千円ずつ納入することとします。

六、サークル活動は戸外と室内で行い、例会として月一回婦人文化センターで仕上げを行いますが、必要に応じて変更することもあります。

七、サークルでは春の小品展と秋の会展を催しますが、出品する作品は必ず例会において披露することとします。

八、新しく入会する場合は「入会カード」に名前、住所等を記入して代表に渡すこととします。

九、以上のほか、変更その他必要事項は、その都度代表、世話役の判断のよって処理することとします。

この資料は第十三回、遠友絵画サークル展という看板を見て入りました。受付で萬正にお会いし、その後、平成七年十二月四日付けのお手紙を頂き、以上のことがわかりました。頂いたお手紙の内容は、次のとおりです。

 

先日は、第十三回遠友絵画サークル展にお出下さいまして誠に有難うございました。

その時お話ししました遠友市民大学の新聞記事のコピーと、それが継続されてできた遠友絵画サークルの会則を同封致しました。活字がはっきりしていないので読みにくいと思いますが、ご覧になって下さい。遠友塾の先生をされているとのこと、敬服の至りです。  

益々の御健勝を心よりお祈り申し上げます。またいつかお会いできたらと願っております。

                              頓首

平成七年十二月四日                 

中川厚雄先生                           萬正拝

《銀巴里見つかりませんでした。萬正へ電話しましたが通じない。今どうなっているのでしょうか?》

 

 

研究追記六 遠友という名の付くところ

その後、遠友夜学校の精神を受け継ぎたいという思いで「遠友」の名を使うところが出てきています。報道されている中から以下に書いておきます。