夜学校斷片④-第六卷第三号―(学芸会記録から)        中三 田中正明

1.十一月八日の灯ともし頃―S先生と校友生が勢いよく便所に飛び込んで行く。

先生 「ああたまらないたまらない。おっと!こっちは女子か、やあたまらない、たまらない」

校友生 「先生!お晩です」

先生 「よう君か、しばらくだな」

校友生 「随分お忙し相ですね」

先生 「忙がしいのなんのって君、僕は便所へ耒る時間のあるのが不思議な位だよ」

校友生 「ハア」

先生 「第一今迄毎晩練習した劇を今日全部変更して、しかも一時間の後に出演するんだからね。今日の一時間後にだよ」

校友生 「ハア」

先生 「ところが生徒はまだセリフがちっとも分らないんだ。一時間後に出演するのにね」

校友生 「ハア」

先生 「なんて長い小便なんだらう。こうやっては居られない。ああ忙しい忙がしい」

 

2.古い先生と古い校友生が廊下でバッタリ出会った。

校友生 「まあ、センセイ、しばらく・・・」

先生 「よう!君か、暫く。時にこの間聞いたんだが君はもうお母さんになったんだってね。お目でたう。早いもんだな」

校友生 「まあそんなこと」

先生 「あの当時はめそめそ泣かれて俺も弱ったもんだが、今ぢゃどうして人の子の母だからな」

校友生 「まあ・・・」

先生 「しっかりやり給へ!」

 

3.展覧会場で

「なんだこりゃ、まるで水上先生の個人展覧会じゃないか」

「その感なきにしもあらずだね」

「俺は白状するが水上先生にこんな素晴らしい才能があるとは知らなかった」

「どうだい、この水彩画は。素晴らしいじゃないか」

「素晴らしいよ」

「実際なんだな。こんな素晴らしい才能があっても、ちっとも表に出さないで今迄黙ってゐて今年は出品物が少なかったから出すところなんか水上先生らしいね。一寸まねの出耒ないことだ」

「妙に、俺は、感激せざるを得ない」

「おい。しっかりしれよ」

 

4.校友生控室

一人の校友生がはいって耒る。

「誰もゐないな。おやつの菓子がある。しめしめ一寸位とったってわからないだらう」

ポケットへ忍ばせてこっそり出て行く。しばらくして又現れる。

「まだ大分あるだらうな。今度はよけいに少しとってやれ」

扉を開けるや否や「しまった。おそかった!」 註:お菓子はカゲもカタチもなし。

 

5.歴史展覧会場

三年「おい、俺たちの厂史展覧会を見たか」

△「あゝ見たよ」

三年「どうだ素晴らしいだらう」

△「まあ素晴らしいな」

三年「第一俺たちが、あの為に如何に苦しんだか分ってるか。夜も寢ないでやったんだぜ」

△「そうだらう」

三年「三百冊以上あるリンコルン会誌を晩飯を抜きにして調べたんだぜ」

△「御苦労だったな」

三年「高倉先生や石塚先生が応援してくれたんだぜ、新渡戸先生の掛図がかゝったんだぜ」

△「そうか」

三年「君は校旗を拝んだ事があるか。恭しく校旗がかゝげてあるんだぜ。そればかりでな

い。ロシヤの鉄砲があるんだぜ。本物の砲彈があるんだぜ」

△「大したもんだな」

三年「尤もボール凾だが、夜学校大辞典を作ったんだぜ。君の背位あるんだぞ。どうだい中等部三年は。素晴らしいもんだらう。かなはないべ、中等部三年に」

△「勝手にしろッ」

 

 夜学校断片⑤ -遠友魂第七卷第一号―           中四 田中正明

*寒夜

「よう!」

「お晩」

「寒いな」

「こたえる」

「何時だろ」

「六時二十一分」

「来てるかしら」

「誰が?」

「級へ誰かゞ」

「さあ?」

「燃えてるといゝんだがな」

「ストーブが―か?」

「ウン」

「あ」

「もえてる」

「すまないな」

―(なあに)

*掃除の最終

きたないバケツの水をザーッと流しました。もう誰もゐません。

音をたてゝ水を汲みました。

手をそっとすゝぎました。

千切れさうでした。

が、タオルでふきながら何か幸福じみた感じが湧いて来ました。

廊下を音をたてゝ歩きました。

電燈がさびしくぼんやり輝いてゐました。

*遅い雨の夜

「誰だ。俺の自転車を玄関に入れた奴は?」

「このきたない自転車をよく入れてくれたもんだね」

「誰だらう」

「誰だらうな」

「あ、小使さんだ」

「すまないな」

「十一時を打ってるぜ、おい」

「まだシトシト降ってやがるし」

「いやな雨だな」

*師

「ね、先生いゝでせう」

「何が?さ」

「何つてゝ例の・・・?」

「う、う、うむ、あれか。よしよし。内證だぜ」

この日からです。先生が僕の兄貴になってくれたのは。

*歸途

「おい、あそこへ寄って食べて行かう」

「よからう」

「そのかはり、君がおごるんだぞ」

「アレ。なら、やめた」

「おいおい。まてまて。じゃ仲よく出し合ふことにしよう」

「よからう。で、いくらある」

「・・・三セン」

「いくらと?」

「只の」

「チェッ!」

「ぢや君のは?」

「オンリ-二セン」

「チェッ」

「これぢやなめることも出耒ない」

「おい。お袋が待ってゐるんだ。眞すぐ歸らうぜ!」

 

研究追記一

 札幌遠友夜学校創立百年記念講演会が1994.6.21(火)13:30~16:30、北海道大学学術交流会館講堂で開催されました。講演会のプログラムにあるように、開会のあいさつから閉会のあいさつまで『思い出』の109ページから189ページに掲載されております。私はこの会の話を録音しました。テープおこしもしましたが、殆ど同じことなのでその文を省略し、この本に載っていない後半部分をここに載せます。

 司会「遠友夜学校は五十年前に閉校になりましたけれど、この精神は稲妻の輝きを持って後世に伝えていかなければならない、ということを確認いたしまして本日の講演会を終えたいと思います。有難う御座いました」(拍手)

 「事務局より二点だけ申し上げます。一点目はこの百年事業の一環と致しまして、南四条東四丁目の遠友夜学校の跡地に、札幌勤労青少年ホームというのが御座いますけれども、その一室に遠友夜学校記念室が新装オープン致しました。どうぞ、遠方から来られた方、また札幌にお住まいの方は、機会を見てご覧頂けたらと思います。もう一点でありますけれども、この後すぐ歩いて四、五分のところに、北大百年記念会館レストラン「きゃら亭」がございますけれども、ここの食堂におきまして遠友夜学校の元教師・生徒及び遺族あるいは遠友夜学校の百年事業会の関係者によります記念レセプションを開きますので、どうぞこれにもご参集頂きたいと思っております。それでは以上で終わります」(拍手)以下レセプション会場にて

 司会「それでは長い間お待たせいたしました。札幌遠友夜学校百年記念の講演会、本当に意義深くまた感激を一杯にしておるところで御座います。お疲れのところで御座いますが、このパーティーをどうぞ意義あらしめて頂きたいと存じます。実は次のような順序で指名させて頂きたいと思います。ここでおひとりの先生にスピーチを頂戴いたします。その後すぐ乾杯に入りたいと思いますのでお許しを願いたいと思うのであります。それでは、平塚直秀先生、大正十五年生物のご出身で元東京教育大学の学長をなされ、現在は日本学士院の会員になる先生で御座います。そして、ご尊父平塚直治先生は札幌農学校の明治二十九年のご卒業で、新渡戸先生からよくご指導を頂いた先生の、従ってご令息になるわけで御座います。また平塚直治先生と新渡戸先生とのことについて二、三の話を頂戴して、スピーチを持たせて頂きたいと思うので御座います。お一人にスピーチをお願いします。

平塚先生お願いします」(拍手)

平塚直秀「突然ご紹介の平塚で御座いますが、実は遠友夜学校については私の父が、亡くなった父が非常に気にしていまして、私も新渡戸先生には二度ばかりお会いしております。

で、東京に出てまいりましたのは戦後ですが、戦後ずっと東京におりますと、会長さんの石塚先生が学習院で一緒なものですから、先生、お前何か喋ったらどうか、という話でここに立ったわけです。ご馳走を前にくどくど喋るのは誠にいけないことなのですが、ともかく、今日の集まりというのは非常に、私最近経験したことでは有意義な、非常に実りの有る会合であったと私は思います。尚、申し上げたいのはいろいろ御座いますけれども、新渡戸先生についてはいろいろご存知で、皆さんは私どもよりは存じ上げていると思うのですが、丁度我々の大先生、私の父は丁度会長さんの石塚先生と中学が同窓でして、人の話ですと首席を争った二人だということになっておりますが、軍人で、最後は連隊長、旅団長それから一番最後が四国の善通寺の留守師団長になって、そこの師団が松井石根という大将にに引き連れられて、南京港に行ったり、それが非常に問題になっとった。その留守中に、これはあの―叔父がお願いしたと思うのですが、在郷軍人の大会に新渡戸先生をお呼びしたわけです。その時に新渡戸先生は、日本を滅ぼすものは共産党と軍部だと看破した。その責任は叔父になったわけですね。叔父が呼んだということになってまして。それでその解釈に、共産党と軍閥というのは中国のことで、日本じゃないということで何かやったらしいのですが、その後いろいろ問題起こったらしくて、軍部でも戦争反対のグループも御座いますしいろいろあったんですが、まあ新渡戸先生は自説を曲げないで、軍というより政府の思惑もあったと思うのですが、いろいろありますが話が長くなりますから、長話するのもあれですから、そういうようなことで少佐になってましたけれど、中将にならずに辞めました。私は叔母様から聞いたのですが、(私は両親からは一言も聞きませんでした)叔母の話だと新渡戸先生をお呼びしたのは叔父であるし、叔父が責任じゃわということで、いろいろ札幌におって帝国製麻の重役をしていましたから、その親父と叔父が手紙を何回も往復して、その手紙はすぐ焼いてくれということだったそうですが、そういうようなことで叔父が定年前に退いております。いろんなことでこんどは偉いことになるぞといわれてその後いろいろ事件が起こっているようであります。