夜学校斷片③-遠友魂第六卷第二號-   中三 田中正明

I 半澤先生

 リンコルン會の夜だった。後ろからひょっこり半澤先生がいらっしゃって無造作に僕達の附近へすわられた。「先生、如何です・・・」と大きな菓子袋を差出した。「うーむ」

先生は袋の中へ手を入れると、固いオコシを取出してカリンと口へ入れられた。恐ろしい樣な、笑ひたい樣な、泣きたい樣な僕はめっちゃな氣持ちになってしまった。

J 眞駒内で

「どうだ。おい」

「あそこの色がね、どうも」

「なんでもかまはねェ、ぬっちまへ」

「ぬるのはかまはないが、これが繪なのかナ。オエ」

何年振りかで使う繪具を持てあまして、かなり悲哀を感じてゐた時、

「失禮ですけど、あの、拝見さして頂けないでせうか?」と後ろで婦人の聲がした。

「拝見?」振向くとどこかの奥さんが、子供らしい小さな小學生を連れて立ってゐた。見るのは勝手だがこんなものを見る氣になるんだらうか?

「ど、どうぞ―」僕は蚊の樣な聲で返事をした。

「あのねミノちゃん。ほらこの兄さんみたいに上手に書くんですよ。よーく見ておいてね」ブルッ!僕は身震いをした。この奥さんはわざわざ僕をひやかしに來たんだ。自分でさへあわれなこの繪じゃないか(破っちまはうか)だがそれ程元氣もない。恥かしくってべそをかきそうになるのを我慢し乍尚ぬりつゞけた。

 Oは得意になってやってゐる。實際彼の方が僕のよりうんとうまいんだ、だのに、この奥さんは何故僕の許見るんだらう。

「上手でせう、ね、ミノちゃん。よ―く見るんですよ」もう駄目だ、なんていまいましいんだらう。僕はカンカンに腹が立っちまった。この奥さんはこんな下手な畫を描いていけないと、吾が子をいましめるために僕を見本にしたに違ひない、確かにそうだ。

「雲のところはあゝやってぬるんですよ、それから櫻はあゝやってぼかしてね、上手でせうミノちゃん。よ―く見るんですよ」この奥さんは馬鹿だ、畫の見方を知らない馬鹿なんだ。見ろ空の色と櫻の色がこんなにぼけてしまって、どこにも見られない素晴らしい傑作ぢゃないか!

「有難う御座いました」行っちまえ!馬鹿な奥さんは去ってしまった。

「あゝしゃくだ!」いきなり飛付くと、僕はその繪をバラバラに破ってしまった。向かふの方で皆んなの朗らかに騒ぐ聲が聞こえる。いゝ天氣だ。何が遠足なんだ。あゝいやだいやだ。

K 認識論

彼は此頃哲學を勉強し始めました。或日左手の指の上へナイフを置いてこんな事をつぶやきました。「僕は今ナイフでこの指を切らうとしてゐる。僕は指にナイフの刃を押しつけてゐる、このナイフを上からたゝけば僕の指が切れるのだ」

「今たゝこうとしてゐる、たゝいた瞬間が切れた瞬間なのだ。その時僕はいたいと感ずる、が、まだたゝかない、僕の右手が上がってゐる。あゝ、下りた。手がナイフにぶつかった瞬間!」彼はナイフをポンとほうりとばしました。馬鹿々々しくなったのです。彼は帽子を被ると、プイと外へ飛出しました。

L 誇大妄想狂

 リンコルン會の夜だった。或る男が登場した。「諸君!僕は今は一介のビビたる青年であるが、やがては代議士に立候補せんとする者である。その時は學友のよしみを持って、是非僕に投票して貰ひたい。しかし僕は一介の代議士で終わるべき人物ではない。恐らくはまたゝく間に總理大臣になるであらう。其時は僕の平素の懸案にかゝる人口問題及び食糧問題を即座に解決するであらう。それはこの地球上の人間を飛行機でドンドン月の世界へ輸送する事である。月の世界は土地擴大なる故に作物も豊饒に實る事であらう」そこまではよかったが後がいけない。「諸君!僕はたとへ總理大臣でも、決してこの夜學校と諸君とを忘れない、僕は如何に遠く離れてゐても諸君や夜學校への指導並びに援助は惜しまない積りである。諸君よ。どうか僕を見習って大いに自重して貰ひたい」

  煙にまかれたみんなは顔を見合わせて「・・・・?」「・・・・?」

M ルンペン

ニックネームがルンペンてのがゐる。勿論本物ぢゃない。荒物雑貨商の小僧さんである。

「おい、ルンペン」

「なんだ」

「どうだ、景氣は」

「よくねェな」