(15)澤合會報第三十七號(昭和13年1月15日印刷・発行後藤氏)

 《寄稿は唯ひとり。忠氏の作品》

 

  「身辺雑記四題」                    多駄志

1.父病む

父が病臥してから早くも五ヶ月再起不能と思はれてゐるのだが、遠からず起き上がれるやうな気持ちもする。肉親の欲目なのかもしれないけれど・・・。杖に縋りながらでもいゝ人手を借りずに起き上がってくれることを念じている。 

 病臥の当初は家中が暗澹たる気持ちだった。父も意識の明瞭をかいてゐたらしく、唇を動かして何かを話してゐるのであらうが、私達にはそれをきゝとることができなかった。 

 病名―動脈硬化症(又は半身不随とか中風)    

 一ヵ月後どうにか簡単な会話ができるやうになり、その後二週間足らずで右半身不随の腕を動かし得、あまつさへ指先まで微かながらも動かすやうになった。そのときの喜びやうは肉親の私達でさへ狂気に近い位躍りあがったほどで、父はどんなにか喜んだことだらう。

 治療は物理学療法の一つ。はじめは一切を医者に委ねて巷間伝へられる諸々の療法には見向きもしなかったけれど、今ではムゲに、けなし得ないものであることを知った。

 四年前、初めて発病した当時全治に全力を集中すべきであったのに、余りにも軽々と二ヶ月足らずの自宅靜養で起き上がったのだ。今にして思へば奇跡(?)だったのかもしれない。その奇跡を今一度繰返さうとしている父の焦躁―。赤ん坊のやうに這いはいしたり、或る時は背後から抱えて貰ひ、アンヨをし、又或る時は病床近くの柱に縋りついて、人手も借りずに自力で立ち上がったりしてゐる。

 寒さに向かってゐるのでいさゝか心配だが、この寒さを克服して春が耒ると共に立ち上がってくれる日を祈るや切なるものがある。

 よはひ六十、まだまだ生きていてほしい。

   2.病臥呻吟

 扁桃腺を冒されて二週間余りも病臥したのは九月の中頃から下旬にかけてゞあった。物心がついてからこんなに長く床についたのは初めてのやうに思ふ。ムリが利く身体だと見えて、毎日髙熱を推して医者へ通ったのが悪かったのか、下がる熱も下がり得ないで三十七、八度から四十度前後の熱と悪戦苦闘の日が続いた。

 病臥二日目の夕方から夜にかけて四十度六分の熱にうなされた時には、床の中を転輾呻吟しその苦痛は何事にも堪へがたかった。あまつさへ少年の頃捻挫した右足首がうづいたときの痛さは未だ忘れられない。それに平生は何の苦痛も伴わない寢たり起きたりする動作が、自分の身体だと思はれないほどに苦痛を訴えたことだ。ちょっと身体を動かすたびに、全身の節々までに痛みが泌み渡った。又咽喉がふさがれて全然声も出なかった日が二日も続き、我ながら心細く感じた。食事も流動物さえ受けつけず、四日目あたりからリンゴの汁だけが通るやうになった。それからは我が家の井戸水が、非常においしく咽喉ぼとけをころがして行った。アイス・ケーキの味も忘れがたい。

 十日目にやっと平熱、三十六度六分の体温計を手にして床の中で喜びの声を上げた。そのせいか寢起きがとても樂だった。

 一度は病院の白いベットを・・・と憧れてゐたが、病臥なぞ二度とするものではないと思った。やはり健康の時が一番いいのだ。

 甲の医者は“化濃してゐるから切開しなければいけない”

 乙の医者は“切開すると癖になるから散らしたほうがよいでせう”

 私はどちらにしやうかと迷った。が、切らずに散らしてしまった。

 発熱の當初、あまり熱が下がらないので、医者の解熱剤の外にトンプクやみみずの煎じたのまで服んでみたが、依然熱が高い。そのうちに全身に紫の斑点が出耒て、いっそう熱が高くなってしまったのには驚いた。医者に診せたら、じっと人の顔を穴のあくほどのぞきこんでゐたが、“顔に出なくて幸ひでした。顔に出れば猖紅熱で避病院行きでしたョ”と、いはれた。あまり無茶をするものではないと思った。

 皮膚が一枚むけたのにはビックリ、それも頭の先から手足の指先まで。初めは銭湯なぞ行けなかった。あまりにもキタナラしくて朝風呂か、人のこまないうちに行きコソコソと隅の方で小さくなって洗った。全部むけてしまうまで一ヶ月近くもかかった。熱の恐ろしさを今さらのやうに感じ、それとともに“なんだカゼ位”なぞと無理をするものではないと痛切に思った。

3.舎弟の應召

 師走の声も間近い十一月末、舎弟が應召した。通知を手にしてから札幌を立つまで四日間の慌しさ。父に代わって雑務の繁忙に毎夜床に就くのは二時過ぎだった。しみじみと父の健在なる日を思ひ、又父親の勞苦の一片を味ははされた。

 應召地―仙台第二師団歩兵隊第三聯隊

 兵科―未教育歩兵第一補充兵

 本年二十二才、昨年の徴兵適齢に甲種合格したが抽選の結果第一補充兵の六番だった。

 出立の前夜、部落では舎弟のために壯行会を開いてくれた。又出立の日は私達一族が生涯忘れ得ぬ程盛大な見送りを受けた。此の日は早朝から十一月には珍しいほどの寒い北風が吹きまくってをり、ストーブの火が一入恋いこがれた。その朝十時頃、村の小学生の一団が全校を擧げて列を組み“歡呼の声”も勇ましく手に手に日の丸の小旗を打ち振りながら我が家を包囲して、舎弟の萬歳を三唱してくれた。

 又出立の際には見ず知らずの人達が思ひも寄らぬ程沢山集まって舎弟の行を盛んにしてくれた。寄せられた好意には感謝の二字に感涙するのみだった。

 駅ホームの“君が代”合唱は水を打ったやうな靜けさだ。発車のベルが鳴り響く前後は興奮と感激のルツボだ。何回と繰り返された舎弟のための萬歳と“歡呼の声”の合唱を耳にしたり口にしたとき、ひとりでに幾度か泪ぐんだことか。激励と萬歳の声が交錯する中を列車は一路西へ。夕闇の中に赤いテ-ル・ランプの光がいつまでも残る。

 病床の父が家の前で唱和された我が子の萬歳を耳にした時の感慨や如何。

4.無念!即日帰郷

 “ケンサフゴウカクメンボクナシ”との電報を手にして呆然としたのは、私達一族が感激の覺めやらぬ二日後だった。そして衝撃の如く脳裏を掠めたものは、どこが悪かったのだらう―不合格―自決(?)-。最近応召し不合格を恥じて自決した人達の話を耳にしてゐたから・・・。一本気の弟だ過ちがなければと念じたり、また短慮のそしりを免れぬが自決するのも男らしいと思っても見た。出立前後に郷党の人達と交わした幾多感激のシーンを繰拡げてみるとき、どの顔でオメオメと札幌へなぞ帰れようかと思ってゐることだらう。私達でさへ近所の人達に顔向けするのが面映ゆく感じた程だった。

 “ザンネン シンパ イセズ スグ カエレ”と折り返し電報を打ったものゝオチオチ眠れなかった。会社にゐても電話のあるたびにハッとし、受話器を手にするのが恐ろしくて、ためらったことも一再ではなかった。一切の杞憂を私達から払いのけてくれたのは勇ましく札幌駅を立ってから恰度一週間目だった。すっかり憔悴しきって力なく、屠所にひかれる子羊よりも憫れに感じた。勤め先の挨拶をすましてからは、日増しに元気になり今日此の頃では平常と変わりなく銃後の一線に働いているのも嬉しい。書き忘れたが不合格は鼻疾(蓄膿症)のためであった。 

                           (一九二七、十二、十六)

過去帳(続)から―昭和十一年度―から忠氏関連を取り出します。

 八月二十五日 夜、母校にて中等部第一回目より十二回目までの卒業生や在籍者だった校友生が五十余名参加して“校友会”再生の準備会を開く。後藤出席。

 十月二十六日 例会を千秋庵で開く。後藤ほか六氏出席。

 十一月二十一日 母校の半澤代表謝恩会。記念品として銅製の花瓶と台、記念事業には半澤文庫が設けらる。校友会の再生。後藤ほか五名出席。

 十二月二十二日 夜忘年会を両関に於て開く。後藤ほか九名参加。

 

過去帳から―昭和十二年度―から忠氏関連を取り出します。

 一月十日 金木猪三氏の通夜に後藤、中村、桝谷三氏、会を代表して列し香典を靈前に供ふ。

 二月二十二日 中村雄二氏釧路へ轉出のため夜七時ころから、お坊ちゃんで送別会を開く。後藤を含む九名出席。

 二月二十三日 中村氏夜九時七分発下り列車で札幌を立つ。ホームには後藤ほか六人が見送った。

五月二十五日 和田夫妻歓迎のテーパーテーをお坊ちゃんで開く。十五名参加。この中に後藤夫妻と二世忠芳君も参加。

六月六日 沢合会のピクニック。一行は九名。後藤夫妻と二世も一緒。

六月二十三日 夜九時十七分発上りで和田夫妻札幌を離る。後藤他四名見送り。

十二月十九日 忘年会を開く。夜七時から宝榮座近くの花塚で。後藤氏含めて七氏参加。