(2)澤合會月報第二十四號(昭和八年三月三十一日発行 當番吉田與次郎)

    《渡邊春江論のテーマで、後藤忠、若木礼、中村幹枝、大坊亥之助、山下芳子、吉田興次郎の人が原稿を提出しています。あとは谷口信吾、山崎良男、春江、三人のお便りです。》

《おねがひ のなかに》「この二十四號で澤合會の二年目は終わりです。愈愈来号は二周年記年号を発行するのです。比較的順調の中に育った澤合會は早三才にならんとしてゐます。耒年こそは試練の三年目です。何事も三年目が大切です。挫折か?隆盛か?それは会員諸君の双肩に擔はされてゐるのです。・・・誌友並びに諸先生方もどしどしご寄稿下さる様お願致します」《おしらせ のなかに》『澤合會二周年記念総会を四月中旬頃催したいと思ひます。会員、誌友、先生方のご出席を期待します。期日は追て発表』《とある。それでは 忠氏の渡邊春江論》

 

 春江氏のプロフィールに何を拾はふ。彼女はどんな性格の持主だらうか。つやのいゝ頬に綻びる笑ひには、何のくったくもないマドモアゼルと云ふ感じがする。一たび笑ひの去った彼女のかんばせに何かしら生活の苦悩を汲みとれさうな気がする。明るい愛嬌者と云ふ感じが彼女から受ける第一印象ではあるまいか。

    彼女の長所の一つに粘り強さをあげる。中途でクラスを去るべく余儀なくされた人達は数多いが、学窓を出でゝも尚グループと接触を保ってゐる人は余り多くない筈だ。そして“春公”“はーさん”“春江氏”だのと勝手な呼び名を冠されるのも彼女の余徳だらう。(彼女にすれば迷惑なことだらうが・・・)褒めついでにタンと誉めて置かうか。例年帰省する度に思ひつくのだが、みなりのサッパリしたのもいゝ。一年に一度だ。派手にしたいのが人情だらうに。

或るはその余裕を持てないのかも知れない。(怒り給ふなョ。春公)だがです昨年練馬大根?を出していらっしゃったのは例外です。時の流れを強く感じはしませんでしたが、ある反面に於いて。

    ザックな私の頭にピンと耒ないのは彼女の短所だ。彼女はどちらかと云へば勝気(?)なところを多分に持ってゐるやうに思ふ。古い因習なぞを蹴っ飛ばして行かうとする気持ちが、或るは彼女を勝気に見せるのかもしれない。でも、自分の周囲を顧みることも必要ぢゃないかと思ふ。

    家庭では駄々ッ児の彼女も、我等のグループでは忠実な会員の一人である。否、一人だったのだ。けれども今年は年賀状を月報に載せたきりで、おたより欄をはじめ会員評からも姿をかきけしてしまったのである。最近はルーズか、スランプか。

    お江戸は札幌から遠いため津軽海峡のもやにぼかされて、私のものしたプロフィールは雲を掴むやうなものになってしまった。春公よ、悪しからず。アデユー  (1933.3.10)