チセヌプリは非常に角度の強い山で七合目あたりから下を見下ろすと目まひを感ずる程です。一月に登った時なぞ雪質が非常に悪くてスキーのエッチ(角)が立たず、折角一足登ったかと思へば三足位も横辷りに落され、遂に頂上間近にして諦めました。展望は又佳なる哉です。南は名無、岩雄、ニセコアン等の銀峰が指呼の間に起伏し、一頭地を擢んでた蝦夷富士がその後に西は鏡面の如き洞爺湖、遠く寿都の連峰がはるかに北に伸び近くは目国内岳、岩内岳はては岩内湾の入江、白い燈台、港、街区、積丹半島、その突端にある雷電岬、余市岳等々東に続き山岳スキーヤーのみが知る極致です。

チセの滑降は又独特です。山の脇腹を一杯に斜滑降を五百米こゝからターンして三、四米の間隔を置き又四、五百米斜滑降を続けるのです。所謂電光型の降りを続けること三十分近くでやっと麓に達します。坐骨が感覚を失ひそうです。スキー滑降の味で直滑降のやうな息づまるやうな味もいゝですが滑降味を少しでもより長く樂しむ斜滑降は又捨て難いです。スキーの両端から雪煙をあげて突進して行く時にサラサラした粉雪とスキーの接触から起こる靜かな快いハーモニイは処女雪にのみしか味わい得ない妙味です。二月に一人で滑り廻った時、しみじみとこの妙味に陶酔しました。

一人で山を歩く味も忘れ難いです。

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一月にこの山の中腹にかゝった頃、チョイチョイ兎がとび出して来て私達を喜ばせました。

四、五間先をさも人を馬鹿にした様にピョンピョン飛び廻り必ず振りかへっては「こゝまでおいで・・・」と云はんばかりに前足で小さい顔を撫でるんです。私達三人はその都度ストックを銃代りに擬して一斉に突喊です。彼らは得意の長足を利して上へ上へと飛んで行っては雪の中に姿を消して了ふのです。降りならいざ知らず登りは歯ぎりをしても追ひつきません。兎の事がでたついでにもう一つ書きませう。これは二月に行った時です。

名無山から元山精煉所を指して斜滑降を続けてゐた時突如として岩蔭から一匹の兎が飛び出しました。偶然にも同じ方向へ、しかも二、三米よりも下を飛ぶやうに斜めに走って行きます。私も一生懸命でストックを押しました。俄然兎とのレースです。五分位斜滑降を続けた頃やっと兎と平行になり、今一息でストックを振り上げて一撃を加へやうとした時、アッ!と云ふ間もなく吹溜まりの中にスキーのベンドを突き差しはずみを喰って身体は前傾斜です。

危ふく顔面制動を免れましたが、どうにか吹き溜まりを抜け出た時には足跡だけが残ってゐました。兎とレースをやったなど思ひがけない拾いものでした。

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硫黄の産地で有名な元山精煉所はニセコ温泉から約二千米、倶知安からは十六キロのところにある小さな鉱山村です。冬は雪がべらぼうに多いところで、軒も屋根も埋め盡くして煙筒だけが焼野原の残された立木の様に出てゐるのです。雪の世界に住んでゐる私達でさへちょっと奇異な感じを抱いた程です。煙筒がなかったら恐らく見あてがつかないでせう。半年近く雪の中でもぐらの様に生活してゐる人達が三百余人(前号五百人は誤り)もゐるのです。

茲では硫黄の採掘と精錬が行われてゐます。製品は二條のケーブル(鉄索)によって十六キロ余の倶知安へ運ばれて居ります。それと同時に日常の衣食品が送られて来るのです。いはゞ二條のケーブルは三百余人の命の綱です。

茲では冬が近づくと軒から廂を二米近くもだして冬囲ひをするのでせう。軒から軒をつないで雪のトンネルが幾つも出耒てゐて立派な通路になってゐます。入り口の荒莚を一枚潜れば三米から長くて五米近い雪の階段が続いてゐて、中は闇に近く何だか地の涯へでも墜ちて行く様な気がします。

昨年吹雪に遭ってこのトンネルの一つに避難した時、子供等がみんなモンペイを穿いて嬉々と鬼ごっこに興じてゐました。今年はみんな外で豆スキーに乘って朗らかに雪とたはむれてゐます。子供らは昨年モンペイを穿いてゐたであらうが、今年は断然金ボタンと赤いセーターにスカートの洋装が非常に目立ってゐました。私はつくづくと時の流れの速さに頭を下げました。中でも勇敢なのは女の子です。モンペイに長ゴム靴ばきをスキーに乘せて山の上からストックなしの直滑降です。

両手を奴凧のやうに拡げて風をさっと切って行く様は見る者をハラハラさせますがクリスチャニ-やテレマークの巧みさには驚嘆します。スキー地に恵まれてゐるこの山の中から、未来は国際的な山岳スキーヤーを生み出すことでありませう。

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飲料水は約五百米ばかり西にある大沼から引いてゐる流し放しの水道です。水のうまさも又格別です。沼の長さは三百米、幅二百米で大体惰円形をなしてゐます。冬はすっかり凍ってその上を歩いてゐます。雪が多いのでスケートは全然駄目らしいです。

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元山は何と云ってもニセコの都です。電燈も完備してゐます。事務所が日用品の購買から医薬に至るまで一切を引き受けてゐます。元山を訪ねるスキーヤーは必ずこの事務所を訪ねます。親切な人達ばかりでいろいろと面倒をみてくれます。この事務所の近くに学校もあります。一度水を貰ひに訪ねました。矢張り九米余のトンネルを潜るのです。校舎は平屋で九米に十五米?の細長いもので教室がたった一つ、机が所狭きまでビッシリと置いてあり、その外に小使室もあり大きなストーブが三つばかりありました。恐らく一年から高等科まで一つの教室で勉強するのでせう。私の訪ねた日は日曜日でした。授業の模様を知ることは出耒ませんでした。今年は茲も雪が例年の半分だとはいへ屋根の棟木をちょっぴり出してゐるだけでした。日曜なので電燈も休みなのでせうが、全く薄暗い室でした。

何だか遠友の古い校舎の様な気がしてなつかしさを覚えて去り難い心地がしました。

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元山からワ゛イスホルンが非常に近く四十分足らずの登りで頂上に達することが出耒ます。

そこから三時間近く降りを続け通して小沢駅(岩内線の分岐点)へ出る愉快なコースの起点になってゐます。

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忘れてゐましたがニセコ温泉には井上と稻村の旅館が二つきりで収容力は五十人位のものでせう。この湯は石鹸が用をなさないのです。又湯の熱い時は晴れ、ぬるい時は曇天の嵐で湯の加減は茲ではバロメーターなのです。二月に訪ねた時、吹雪の明け暮れを五日続けてやっと朝始めてお陽様の顔を見たと云ってゐましたが、その日は午後から曇天になりますます空模様が険悪になりました。すっかり消気してゐたら宿の人が久し振りに湯が熱いから明日は上天気になりますよと元気づけてくれましたが不安でした。ところが翌日はとても素晴らしい好天気になりました。こんな事から地熱と気圧に密接な関係を持ってゐるのではないかと思ひました。折りがあったら石塚先生にでも尋ねてみたいと思ってゐます。 

宿はランプです。ホヤ磨きで苦労した少年時代をまざまざと思ひ出しました。

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すくなからず脱線気味ですがニセコ一帶は全く山岳スキー地に恵まれ過ぎてゐる位で羨ましい限りです。お天気さへよければこれ程よい山岳スキー地はないでせう。雪はよし、山はよし、又展望は良しの三拍子を揃えてゐるからには東洋のサンモリツと呼ばれるのも宜なる哉です。けれども一度山の怒りを見た時はあたりは粉雪で塗りつぶされて一寸先も見ることが出耒なくなるのが常です。これが玉に瑕でもあり又大きな不安をスキーヤーに与へることを忘れてはならない山です。目標になる樹木の少ないこの山は吹かれたら全く三文の價値もないかも知れません。先づニセコに遊ぶ時は「吹かれたら一日宿で寝る覚悟で行くべき」でせう。

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このほか注意すべきは汽車で三時間半の疲労と八十度近い車内のヒーターや煙草の煙は嘔吐を催す程苦しいこと、晝夜は充分用意し成るべく飯類を持つことそれから汽車の便が非常に不便ですから時間を余す程待つ事をあげておきます。

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三月最後のシーズンを加へて今年三度の二セコ行きのプランを樹てゝゐました。何度訪ねても飽きることはなく益々スキー味を煽られる山です。若しも私に煩雑な都会の生活から脱れ出る様なことがあったら、ニセコでスキーガイダ-(スキー案内者)をして一生を送りたいと思って居ります。その時は遠友の人達に無料サービスをしますから訪ねて下さい。全くニセコの山はどこを見ても広々とした明るい山ばかりです。又夕陽が落ちる頃、蝦夷富士の全貌に映えるバラ色の陽光は一入見る者をして荘厳の中に恍惚とさせます。ニセコに耒てこの山を見る程、愉快なことはありません。この山は見える日はお天気が良いからです。

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わずか三度訪ねたばかりでニセコの横顔を記すことは汗顔の至りです。何かと参考の一助ともなれば幸甚この上もありません。    妄言多謝。   一九三二・二・二五

 

《卒業してからも遠友夜学校は離れ難く、校友生として倫古龍會に関係していたと思

われます。遠友魂は七年の二卷、三卷そして第八卷の二號(昭和八年-1933年)を持っておりました。それには後藤忠氏の寄稿は御座いません。》