(9)遠友魂第六卷第一號 倫古龍會發行 

《記録は見当たらないが昭和六年二月か三月の発行と思われる。この年、昭和六年後藤忠氏は二月十一日に卒業してゐる。この號の庶務部報告の中で、十二月十五日第六百廿回例会で山の漫談 中四後藤君とあり、明くる年一月十五日の例会では討論会で、当日の登壇弁士及び回数の記録があり、後藤君(中四)二回とある。次は寄稿文です。》

 

 

隨筆

    「思い出の侭に」                 中四 後藤忠

『少年易老難成学 一寸光陰不可軽』云々とはよく吟じた句であると思ひます。私が此の遠友に学んでから恰度四星霜になります。先輩諸兄に感激の辞を以って迎へられたのもつひ此の間のやうに思はれます。それから三度先輩諸兄を送り、新たに後輩諸君をも迎へました。

その都度に、遠友を目指して集ひ耒る人々の数が年々増加してゐます。遠友の盛衰は益々裏書されて、一歩々々社会的に認められ得る機会が多くなって耒ました。それと同時に遠友に学ぶ私達の責任も、より一層重くなって耒た事も確かであります。ともあれ、私は今学期を最後として、思ひ出多い遠友生活に、さやうならをしなければならない身です。過去四ヶ年を顧みる時、年々学業にいそしむ熱が失はれてルーズになって耒ました。

が、しかし、卒業間際の此の頃『一寸光陰』云々が犇々身に沁みてゐます。諸君は決して私のやうな悔ひを残さないやうに、今から心掛けて下さる事を、紙上から老婆心を以って申し上げておきます。

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私が入学した頃の校舎は、隣のお寺の物置ではないかと思はれる程の校舎でした。それが僅かな間に、このやうな立派な校舎に移り得やうなどゝは夢寐だにも思ひませんでした。 

旧校舎に学んでゐた頃、よく先生方からこの校舎の余命が幾何もない程、朽ち果てゝゐる事を聞かされ、又私達もそれを毎日眼に触れ、手にさはってをりました。改築問題が遠友の人々の口に上ったのも束の間でした。その年(一九二九年)の六月末には裏手の空き地で地鎮祭が行はれ、基礎工事が施工されてから一ヶ月も經たないうちに、校舎が新たに積み木を積むが如くにバタバタと建てられて行きました。そして九月末には出耒上がった校舎を二日間、全校生徒をはじめ先生方も交って汗水流しながら、タワシをかけたり、曹達湯で洗ったりして見違へる程、綺麗に大掃除をした事や、掃除が全部片づいた後で、一同揃っておいしい「おはぎ」に頰をとばした事などは忘れ得ない思ひ出の一つです。

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又、年に一度の運動会。円山の桜が散って、そろそろ若葉青葉の薫頃、桑園の野辺で学校中の人達が先生・生徒の差別なく童心にかへって一日中飛び廻り嬉々として過ごしたことも、楽しい思ひ出であります。わけても私達のクラスは呼物の對抗リレーに、毎年健闘しながら長蛇を逸して耒ました。そのたびに「耒年こそは!」を誓ひあってゐましたが遂に昨年も惜敗して、永久に覇権を握ることなしに敗れてしまひました。運動会も私達にとっては、泪の記録として忘れ得ぬものとなってしまひました。

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月寒、真駒内などの遠足に一日中遊び疲れた足を引き摺りながら、日暮れの田舎道を帰るときに『お手々つないで・・・』『夕焼け小焼け・・・』そのほかいろいろな童謡を唄って歩くと、今まで乱れていた足並みが急に揃って元気づき、ますます声を張り上げて歌ったものでした。こんな事も思ひ出の一つになってしまひました。

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夏の海水浴、秋の学芸会なども亦たのしいものでした。とりわけ学芸会などは、全学期を通じてのエネルギーを全部この会に注ぐといっても過言ではないでせう。それだけ元気のある力強い会だったと思います。ふりかえって見る時、一昨年は『ジャンバルジャン』二年目は『水地蔵』三年目は『北風のくれたテーブル掛け』そして最後は『ウイリアム・テル』等でした。『ウイリアム・テル』はクラス総動員で各自が一役づゝ受け持った事も良い思ひ付であったと思ひます。今クラスに残ってゐない人達で、その頃一緒に毎夜遅くまで練習した人達の顔が一ツ一ツ浮いて耒て、遠い忘れてゐた記憶が甦って耒ます。奇妙なことにその頃劇に関係した人達が揃いも揃って殆どみんなといってもいい位、札幌の地を離れないまでも、家庭の事情で学校を中途退学したなどは、何かの因縁ではないかとも思はれます。その人達が今どんな身の上になってゐるかははかり知るを得ませんが、その人達の身の上に幸あれと祈ってやみません。

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「幹事」といふ言葉の響きはなんと重々しい響きでせう。わけても「自治会」の三字がついた時、鉄の鎖を引き摺るやうな響きが私の耳には聞こえてなりませんでした。幾たびか幹事を投げ出さうとしましたが、その都度に『なんだこれしきことに』と、自身を励ましながら苦しい一年を送ってしまひました。或る時一人の自治会員から『自治会はアラ探しの会だ』と聞かされました。その時私は私自身に叫びました。『たしかです。それもよりよい学び舎にしたいために、幹事は憎まれながらも携はってゐるのです。みんながみんな、自治会の趣旨を重んじてくれたなら幹事などは不必要です。亦それが自治会の理想であると思ひます。それだのに「アラ探しの会だ」などゝいはれた時に、幹事はとりつくしまがないのです。もう少し幹事の仕事を理解して頂きたいと思ひます』と。ともあれ、今学年は私達幹事に大過なく責を果たさしてくれた会員諸君に紙上を借りてお礼を申し上げます。又新たに幹事に推された人達に對して、この拙文が今後の一助ともならば幸であります。

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『この頃の遠友には伝統としてゐたところの自由さがなくなって耒た。それに替って形式的な流れが瀰漫してゐる』との言を、曾ての先生が時たまお出でになっては、口にするのを屡々耳にしました。私にもハッキリとはいひ得ませんが、そんな気風があるのを感ずる事が出耒ました。校舎が拡くなった事も一因でせうが、『上級に立つ君達にも、その責の幾分かを負わなければならない』と申された先生もありました。だが私達にはこれをどうしていゝものやら、判らないうちに卒業しなければならなくなりました。失はれて行く『遠友に自由』をの気風のために、学校に残れる人達も慎重に考えていただきたいものであると思ひます。

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毎夜歌ってゐる校歌や奨励歌を口にする日がだんだん僅かになって耒ました。この頃になって、ほんとうに歌の意味を噛みしめて味はふことが出耒るやうな気がします。よく先輩諸兄が卒業近くになると『校歌や奨励歌ほど私達の気持ちを捉えるものがない』といはれたことを記憶してをります。わけても私には奨励歌が切実に感じます。

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センチメンタルな事ですが、私達がクラスを綴り泣きと泪に満たした事が二度ありました。

それはT先生を送別した時と、A先生が全校生徒を集めて訓誨された時でした。前者は師弟との別離の泪でした。後者は私達クラスのために叱ってくれたにも等しいもので、私達はその非を悔ひ、遅くまで存分に泪して悔悟を誓ひ合ひました。そして翌くる日からは夕立の後のやうに、何もかも忘れて朗らかに談笑しあったことなども、思ひ出の一つです。

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まだこの他にいろいろな思ひ出が走馬燈のやうに、プーアな私の頭の中をぐるぐる廻ってをります。じっと目をつむってゐると、書きたいと思ふことが、後から後からと出て耒ては消えて行きますが、今日はこれでペンを止めて又の機会にゆづりませう。

                            一九三一・二・二○

《ここで遠友時代はおしまいです。これが遠友時代の最後の作品になりました。作品を通して忠さんの生活を想像して頂きたい。》