(7)遠友魂 第四卷第三號 倫古龍會發行 昭和四年十二月二十四日発行 1929

《後藤忠 中三 23歳 増築記念號 表紙には倫古龍會文藝部發行となっていましたが、今回から文藝部がなくなっています。編輯後感に発行が非常に遅れたことを堂ノ下義雄編輯主任が書いておられます。後藤忠氏の寄稿文は一篇です。》

 

 

空沼嶽へ                    中三 後藤忠

 露の強い朝だ。初秋の気が冷え冷えと肌に喰い入り寒さを覚える。危ぶまれた天気もどこへやら、空には一片の白雲だに見ることが出耒ない快晴だ。なんだかけふの壮挙を祝福してくれるやうに思へる。海抜一千一百三十三米、空沼嶽登山決行の朝だ。「お早う」「お早うございます」と、朝の挨拶を元気な声で交した一行十六名は、車中の人となり六時四十五分札幌駅前発、定山渓行きのバスに身を委ねる。さながら一行のための貸切車の感がある。朝の前奏曲を奏でながら眼覚めてゐる市中を尻目に、赤い林檎のみのる平岸街道から、絵のやうな眞駒内の緑の平原を左手に走馬燈を現出し一気に石山へ飛ぶ。乘心地非常に良し。瞬きのうちに石山着、時に七時十分。白塗りの登山標柱に「石切山―空沼嶽、一八八四粁、四里二十八町四十三間」と黒く書かれてある。バスに乘り遅れた二人を待つこと二十分。陽は上ってゐるが温(ぬ)く味はまだ届かない。寒さは全身に沁みこんだ。「待つこと二十分、耒らず、七時半出発す、遠友」との貼り紙を残して空沼嶽へスタートを切った。  

 間もなく遅れた二人は追ひついた。身に沁みた寒さは暑さに変った。運ぶ足の軽かった道も重味を増して、どこからともなしに狭くなり單調な田舎道を辿る。約二時間後にどうやら山路らしい山林に差しかゝったのは九時半頃だ。「倦き倦きするほどながい路だった」と思はず口走る。ぢりぢりと残暑の陽に灼きつけられた面は、山林の濕りにほどよい快さを感ずる。

今年の春、開いた山路とはいへ、素晴らしく幅の広い歩き易い立派な路だ。二時間近くも長い單調な田舎路を歩いた脚は急に立派な山路に入ったので、前後の分別もなくどんどん空沼嶽とは反對の漁村へのS字形の山路を登った。が、幸いにも山を下りて耒たお百姓さんに二股で路を間違へたことを注意されて下る。違へるのも当然だ。二股は大木の幹と小枝を比較するやうな細徑が、谷川に沿い雑草の中に這ってゐた。「右へ空沼嶽」と、紙に筆ならずペンを走らせて、大木に貼りつけ、マイナスしたタイムを償ふために先を急ぐ。こゝに登山標柱設置の切なるを痛感する。斯く希ふ者は豈われのみならんやである。

 谷川は細徑に沿ふて、せゝらぎの音を右に立て、左に立てたりして、酔いどれの歩みの如く何處までも続き、丸太を二つに挽き裂いて架けた原始の橋を、危ない足どりでいくつもいくつも渡る。谷川の音が何時とはなしに下へ下へ取り残され、あたりが眞と靜まり返る。山の気が満ち充ちて常盤木の緑が、薄気味悪い程に濃く彩られた原始林の細徑に入る。

 程なく陽射しの洩れた名無沼に出る。此処だけ視野は明るいが、水の色は主でも住んでゐさうだ。大木が肌を水に蝕ませて長く横はってゐるのも、一層鬼気を感じさせる。十分ばかり憩ふて又上りはじめる。やがて万計沼を常盤木の間に覗き見た時、沼の荘嚴な神秘を感じ足は釘づけにされる。どこまでも青く青く澄み、透き通った沼の色、周囲に常盤木が千古の秘を秘めて、鏡のやうな面に緑の影を靜かに落してゐる。その間に紅の焰二、三ヶ所立ちのぼり初秋の深みを一入感ずる。山の秋は早い。木の香新しい空沼小屋は、どっしりと山の気を背負ひ込んで、これも亦靜かに臥してゐる。沼と周囲の常盤木に魅せられた一行は、今まで暗く細かった路が急に明るく開けて、彈力のあるふはふはした歩き易い路に変り、秋晴れの空が頂上に迫って、陽の光が汗ばんだ身体に灼けつきながら躍ってゐるのを仰ぎ見た時、荘嚴な山に気から遁れ出たやうな気休さを覚えたのは、あれから二十分程後である。

 心臓の鼓動が一歩一歩強い衝動(ショック)を感じ、一呼吸(いき)吐くたびに息切れが苦痛を訴へる。爪先は苦痛を耐え忍んで、力強く大地を踏みつけながら四十度近い急坂を、喘ぎ喘ぎ攀るやうに全身の重みを運んでゐる。急坂と苦痛に麻痺した眼に突如!視野が海原のやうに開けて沼は一部水涸れに石原を見せ、此場にも千古の秘を包む常盤木が左側に聳え立って影を落とし、右側は黄色を帶びた錦織りの低い潅木が亭々として続きこれも靜かに姿を写してゐる眞廉沼に出る。広々とした海を眺めるやうな気持ちを味はひ、疲れを忘れさせてくれる。真偽の程は与り知らぬが、この沼の水を飲んだ者は、きっと腹痛か下痢を起こして苦しむといふことから魔の沼の名がある。さう思って色眼鏡で見るせいか水は紫色がゝってゐる。若しも疑ふ人は実地にこの沼の水を呑んで、その可否を解決しこれを公に発表することを希望する。憩ふこと十分。いよいよ最後の嶮に入る。時にジャスト十二時。

 胸と膝を接觸するやうにして五、六歩登っては一息入れ、一息入れては又五、六歩登る。

一息入れる度に動悸の波打ちが、一脈づつ息切れと一緒に鼓膜に伝はる。登れども登れども急坂は覆ひかぶさるやうに上へ上へ伸びてゐる。頂きは未だ影も見せない。へとへとに疲労しきった頃、誰か「オーイ、オーイ」と呼んでゐる声が谷間に谺して頭上に落ちて耒る。

一行はその声に元気づけられて一斉に疲れを忘れ「オーイ」「オーイ」と答へる。山の声となって谷を越え、梢を亘り谺となって響き返って耒る。一度が二度となり三度となって声は間近になる。時たま豆腐屋のラッパの音が聞こえて淋しさを感じさせる。こんな山の中に豆腐屋がと、疑雲がむくむくと頭を擡げたが直ぐ椋め去る。五、六人の人影が梢間に見え、ホッと安心する。未知の人達であるが頂上は快晴で展望が非常によく利くこと、後十五分位である、と元気づけて威勢良く豆腐屋のラッパを吹きながら下って行く。元気づけられた一行は勇躍、最後の頑張りを見せて駆けるやうに登る。十分とたつか、たゝぬうちに「樽前だ」「あゝ羊蹄山!」と嘆賞の声がどっと揚がる。いよいよ嶮しくはひ松の香が漂ふてゐる。はひ松地帯を足場に猿(ましら)の如く一気に駆け登る。「ジャスト零時三十五分」とK先生がバスのある元気な声で叫ばれる。頂上である。札幌駅前より五時間半石山からは五時間、行程四里二十八町四十三間(石山から)を踏破したのである。

 今一行は、海抜一千一百三十三米の頂きに立ち無念無想に近い境地から、唯々自然のふところの偉大さと山の美しさを嘆賞してゐる。西に羊蹄山があたりの群がる山を威壓して擂鉢を逆さにふせ、巍然と擢んでゝゐる。その容は東海の富士山もかくやと想像するに難くなく、蝦夷富士の名も宜なる哉と叫ばしむるも当然である。その遥か後、南よりの水平線上に噴火湾の入江の一部と駒ヶ岳の雄姿が望まれる。そのまゝ瞳を南に、間近に迫る峰の連なりに移し耒れば、指呼の間に樽前山が水蒸気を沖天に吐きて棚びかせながら、四囲の切り立てる旧火山を睨視し、人をして怖れを抱かしめる。白金に彩られた支笏湖の一部が直下に横はってゐる。急に樽前のスロープがなだらかに麓をなして何處までも続き、太平洋の渺波がその岸を打ち洗ってゐる。又東の水平線上に日高山脈が兩手を拡げて起伏し、その中に石狩の大沃野が南から北へ黄金の波を湛えながら貫けてゐる。石狩川が北寄りに、この沃野を縦貫して石狩湾に注いでゐるのが見える。北は日本海の荒浪が石狩湾の入江を洗ひ、増毛の山々が水平線と合視一色に没してゐる。自然が描ける全幅画を飽くことなくしばし眺望を恣にし、山や湖の名を叫び合いながら晝飯をパクつく。味はまた格別である。

 ユラユラと陽炎は立ち上り眞夏の陽が頭上で躍ってゐる。マッカリヌプリ(羊蹄山の別名)や樽前、支笏湖をスケッチにする。Dと札幌を遠く離れてゐる級のNやYに寄せ書きを書いたりする。約二時間に亘り展望の限りを尽くして帰り支度中、いつとはなしに遅れた一行がどやどや登って耒る。ひとしきり他愛もない話に興じながら記念撮影をする。Mがたゞ一人腹痛のため空沼小屋で落伍した事を耳にする。Mにこの山の眺望を話したら嘸かし残念がることだらう。遅れて登った人にはお気の毒であったが一足先に山を下りる。 

時に二時五分。

 登りに難儀した路も下りはとんとん一足飛びに下る。山の中はお日さまのあるうちに下り得たけれど、單調な田舎道の中途でお日さまがトップリ暮れる。心細いことこの上もない。それでも石山の登山口に着いたのは六時二十五分である。心配してゐたバスにも間に合ひ、先発隊七名は疲れきった身体を横たへる。車中で遅れた十三名(この中に途中より三名加はる)の人達は今頃どこを歩いてゐることだらうかと想像し合ってゐる。バスはエンジンの音も物凄く四十哩のスピードを出して飛んでゐる。窓の外は眞暗だが、東の空はほんのり明るくなってゐる。お月さまが出るのだらう。

   一九二九・九・二二夜