十一月十三日 (木曜日)八時半起床 曇時々晴後雨雪

此の頃朝は外を歩くとカラコロカラコロと足駄の歯摺れの音が聞こえてくる。何と此頃の朝晩の寒いこと。堀君と当番を十四日と十六日と取り替へた。今朝から怪しいと思ってゐた空は午後七時頃になってザアザアと雨がふってきた。『その夜の追憶』の第二章「罪業」第三章「海」の二編を読んだ。だんだん寒氣を覺えてきた。鍛冶さんや櫛田さんがきて仕事の整理をしてゐた。九時、使いに外へ出たら今までの雨は雪に変はってふってゐた。寢につく頃はもう外は銀世界になってゐた。 十一時半頃寢につく。

 

 

十一月十四日 金曜日 七時起床 曇後一時晴

 今朝は珍しく眼を覺ましたよ。六時半頃だも。起きやうかと思ったが余り寒かったので床中へ又もぐりこんだ。ゆうべの雨、雪はすっかり凍ってゐた。昨年十二月二十五日の開院式当日虎の門附近で東宮殿下の自動車に發砲した大逆人南波大助はきのふ大審院にて死刑の判決を受けた。そして一週間以内に刑を執行することに決定した。朝飯後、第四章「その夜の追憶」第五章「仔馬の死」を読んだ。第六章「灯」は中頃まで読んで會社へ行った。今朝腕時計を見たら右側の方の一分ばかりの硝子がわれていた。何うやってわったのかさっぱり自分ながらも判らない。鍛治さんが來てゐた。夕飯後、弟と前後して錦座へ行った。断りなしに裏口から御免してしまった。中へ入ってから足がついたのでうまく卷いてやった。氣がきでなかった。實寫の最中だった。「悪太郎」新井の演出ぶり(と云っても僕は初めて見るのだから)には感服した。庸さんが村の若者の對手格闘シーンを見たら「ヤラウ來い」何んて腕を擦ってゐるだろうヨ。此頃庸さんは不運だ御同情するネ・・・。最後にお仙ちゃんとのラブシーンの時の動作や表情は我々を思はず悦に入らしめたのは淳さんが獨特の專売らしい。蓉子のお仙ちゃんは純な村娘に應《ふさ》わしい。無理な処はなかった・・・。あの羞かんだ無垢らしい表情、あの英雄もチャームされるのは無理ないネ・・・。英雄も勘当されて村の丘上に立った時に豆粒大の涙をポロポロ流して今までの罪を悔いた。又父母や妹などを思ったときはさもないネ。豊かな田園を背景・・・あす又・・・「混線電話」はなんとかもう少し色をつけてもわるくないね。

あまりものたりない。奏樂「森の鍛冶屋」なんと題からして好さそうだと思った。たけなはになった時、「トッテンカントッテンカン」と鍛冶屋の音を死の中からひびいてきたやうに聞いた時、俺は知らずに引き入れられてしまった。

なんと云ふ好い奏樂だらう。「皈らぬ父」は「父皈る」からヒントを得たのではないだらうか。筋は「父かへる」からの逬にしたやうな人の世の奇しき悲しい物語でした。加藤青眼には何時もながらと敬服する。阿部宇之八本社理事は癌を患ってゐたが十四日午前二時十分遂に死去した。

 

 

 十一月十五日 土曜 七時半起床 曇時々雪

 久ぶりで今日は一寸雪が降った。第六章「灯」の続きから読んで社へ行ったのは十時過ぎてゐた。第《空白》回目の当直だ。相手は佐藤、門脇の兩君だった。十時十分社を出た。大助は本日午前九時に執行されて十五分にして絶命した(市ヶ谷刑務所で)。家へ皈ったら鍛冶、櫛田夫妻、斎藤さんたちがきてゐた。父達も若返って女の話なんかして大騒ぎをしてゐた。斎藤さんが一番最後まで残ってゐた。家を出たのは一時半頃だった。林檎(赤玉一等)を一箱貰った。三つばかり食べた。家へ皈ってから一時半まで一変(遍)も火のそばへ寄らなかった。炬燵にあたりながら第七章「妙な家」を一寸前の方だけ読んで寢につく頃午前二時半だった。今晩の東電に慶早の野球戰が十八年ぶりで二十二日、明大の目黒野球場で開催すると。めぐまれたる東都のファンよ、さだめし人出だらうヨ。

 

 

 十一月十六日 日曜 八時十分起床 曇一時晴

 二時半頃寢たのに今朝は何でもなかった。頭がよほどフラフラするかと思ったら。朝飯後『妙な家』の夕べの続きを読んだ。又中頃でやめた。又土草履を忘れた。今日三日も、随分忘れん坊になったものだ。工藤君のを借りて穿いた。原稿を分ける人が皆んな公休なので、堀、南波、佐藤の諸君が交互に分けた。初めてみつちゃん(梅田弟)と一緒にかへった。路の悪いこと。

なんと云ったらよいか、たとひかたにも困って了ひます。マア察して下さいヨ?

勝男が湯へ俺の足駄を穿いて行って取り替へられたのでどさくさに辧償してくれと云った。

『妙な家』の今朝の続きを読んだ。妙にチビチビ読みをした。妙なことだ。第八章「日傘」を全部読んだ。菓子を買ひに行った。母と出費してカリントを買ってきた。あまり菓子の種類がなくなった、デパートメントスター(ストア)には。それから湯に行った。大分入らなかった。清水のをつちょさんに會った。時々湯で出會ふ生意氣な茶目が俺の顔を見てニコニコ笑ひながら湯をかけたが黙ってゐたら、稍々たってから又かけたので、上っていって平手で二ツつゞけさまに殴ってやった(小さいものを殴って生意氣だと思ふだらう、皆んなは・・・)罪な事をした・・・もう遅かった。仙石鉄相案の建設費増額について三仙と政府側と揉めてゐるが大したことはないやうだ。

 

 

 十一月十七日 月曜 八時半起床 晴

 夕べ雪がふってから初めてあんなに強く凍えたので九時が過ぎてもさっぱり溶けない。幸ひだ。路が良くて結構なことや。床の中に入ってゐた時櫛田さんが來たらしい。今日こそ忘れないで草履を持って行った。久しぶりで湯へ行ったので疲れて一息に寢てしまった。一日中晴天だった。近頃にして珍しい天氣だ。どうりで永井君の公休日だもの。さだめし何処かで微笑んでゐるだらう。あす阿部宇之八氏の葬儀があるので市役所前から社の前一体の悪路の泥を取り去り砂利を敷くなどゝ市役所でしてゐた。見送り人のためだらう?社内は大掃除をしたり(三階を)洗ったりしてゐた。小樽で殺人事件があった。(小樽電話に?)丸井の三階に圖案ポスター展覧會があったので岩淵君と一緒に上がって見た。随分沢山なポスターだ。これで二回入って見た(入り口をかへてから)。鍛冶さんがきてゐた。うまい南瓜があったので南瓜ばかり食べてゐた。鍛冶さんと議論をした?歸ったのは九時十分過ぎだった。

ストーブをつけやうとしたが余り家が狭いので父が種々算段してゐた、母と一緒に。

その故か第九章「水鄕雨語」を読みかけてゐて読めなかった。妹が仕事の親方を取替えやうと(好い口があるので)して父母に相談してゐた。薄い雲がかゝってゐるためか星がぼんやり瞬ひてゐた。東の雲間が明るくなってゐる。月が上がるのかもしれない。寢につく時は十時四十五分。

 

 

 十一月十八日 火曜 七時二十分起床 晴時々曇

 阿部さんの葬儀があるので時間を少し早めに家を出た。三十分早いと斯くまで人通りがあるのかと思った。九時半に阿部さんの靈柩が本社に着すので出迎ひに社前へ出た。待つこと三十分青年圑や小學校長、官衙、公職者等は社前に人山を築づいた。やがて北方から柩車を先頭に數臺の自動車が順序に着した。三階の大廣間に於いて告別式が執行された。二時英靈は花輪に包まれて豊平墓地に荼毘に附せられた。着物を着替へに四回も繰返した。何といそがしいことだった。御供物を一宛貰った。工藤君のも頼まれた。夕飯最中に朝端のをじさんがきてゐた。

工藤君の家へ御供物持って行ったが工藤君は留守だったのでをばさんに頼んできた。皈りに南一條橋をひと廻りして家へかへった。朝端のをじさんと父は借金辧債についての相談をしてゐた。抜粋帳を繰り返し読んで見た。第九章「水鄕雨語」を一氣に読んでしまった。吹く南風は頰を掠めてゐた。雨でも降らないば良いが。板垣さんが馬鹿に悲觀論を唱えてゐた。厭世自殺するんでないだらうか。父たちはまだ今後取るべき方針を、善後策を講じてゐた。九時半頃寢につく。

 

 

 十一月十九日 水曜 七時半起床 曇一時晴

 八時半頃久ぶりで堤防へ出て見た。まだ新規堤防は完成しなかった。今盛んに下を地ならししてゐる。ブラブラ豊平橋の方へ出て行った。六ツ位と四ツ位の男の兒六ツ位の女の子と友達になった。別れる時に「又あしたおゐでネ、さやうならさやうなら」と云って別れた。

明日も行ってやらうと思ひました。『その夜の追憶』を永井君に済ました『中央公論』を(『改造』かもしれない)貸した。当直でした。相手は門脇、堀の兩君でした。今晩すっかり文字をかへしてしまった。予算閣議で予算決定したので電報が沢山きた。清水(金)さんと一緒に南一條通を皈った。途中で「をやき」をもって貰った。家へ入ったが直ぐ外へ出た。何の目的もなく只無意識に近所をブラブラ彷徨った。『中央公論』の創作『滝』芥川竜之介氏のをなか頃まで読んだが、頭がふらふらしだしたので床につくと直ぐ寢むってしまった。

十二時頃前だと思ふ。