十月三十日(木)曇雪後晴

屋根の雪量は二寸位だ。ゆうべから少くとも三寸位は積もったゞらう。路の雪は路ばかりでなく屋根の雪も降る。かたっぱしから溶けちゃったから測ることは出來なかった。九時頃になったら又眞暗くなって霰が降ってきた。左の足だけに足袋をはいて(右の足は包帯をまいてゐたので)家を出た。霰はたけなはにふってゐた。右の足先は眞赤になって千切れそうだったが間もなく霽れた。十時頃から遂に晴れ渡りて陽が照りだしたからたまらない。忽ち雨だれがたって屋根の雪は溶けて路はさながら泥々になって低い履物なんか足のやりばに困る位だ。そのせいか馬鹿に長靴が見受けられた。明日工業學校とピンポン試合をすることになったけれ共、社では社員以外の人に絶対使用をする事を禁止したとして使用することを許さなかった。進退きわまって惡計《悪い行為》をめぐらして一策を案じた。それは?仕事がすんでからピンポンをやりにいった。三、四分位やったが球をわったのでやめてきた。清水さんに氣の毒でしたから三分の一弱を手渡した。外は割合に暖かゝった。雪は何処へいったものやら影を没しちゃった。夕飯を食べたとき家には妹弟達は皆んな隣の家に遊びにいった。

キャッキャッとはしゃぐ声が手にとるやうに聞こえる。父が寢につくまで一ことも口を利かなかった。何だかいやな氣持ちがした。『改造』を久ぶりで又読み始めた。『恋愛なき人々』を又読んだ。第三場を二回くりかえして読んだ。何と云ふ悲しい悲劇だらうか。呪われた四角関係の物語だ。奉天軍はこんどこそ確實に山海関を占領した、二十八日。廿八日陽村に呉、馮の兩氏が対陣したので有力者(支那の)が和平に斡旋中であると。又盧氏を敗って美事に凱旋した。斉變元氏は呉に又寢返りを打った。呉は又何と云ふ捨てられた男だらう。英国の勞働黨又天下を取るか!將又保守黨か自由黨か。天下分け目の戰は二十八日の深更までに投票〆切った。結果は如何に?全国の衆人の的となった明治神宮競技は本日火蓋を切った。

十一時二十分寢につく。

 

十月三十一日(金)曇

ゆうべの空模様はピカピカとどの星も恋の星、またたひてゐたのに今朝は今にも降ってきそうな空模樣。折角あてにしてゐた人が沢山あるでせう。七時頃だ、呼び起こされたのは。

九時十分前家を出た。社に行ったがだれもきてゐなかった。稍々たってから永井君がピンポンの球を買ってきた。二人で一時間ばかりやった。工業の木工科の人が十二人ばかりきた。

僕達は僕と永井君に半沢君のたった三人だったが、向ふの人のうちから一人かりて四人でやった。第一回戰は永井・半沢の兩君が力戰して全勝し、第二回戰は僕は先手であったが慘敗した。原田君も善戰したが敗れた。半沢君も永井君も善戰したが脆くも優待二人を出して敗れた。歸りに新川堂へ行って古本屋を素見して『処女の死』加藤武雄氏作のをかった。その足で狸小路へ行って古本三冊を買った時永井君に十五戔を貸してやった。

南三條通りを眞直ぐ六丁目まで一緒に行って別れた。永井君は今日馬鹿に悲觀してゐた。

家へ皈って本を読もうとしたが父や鍛治さんがきてゐたので読むきになれなかった。堤防へブラブラ出て行った。小さい友達とボール投げをやった。球をなくしてしまった。湯へ行って金春館の札を貰ってきた。夕飯後電車で行こうと思った。藥屋でホンチオールとハミガキを買った。直ぐ電車で行った。相当の入りだった。「ゆうれいの都」を中頃から見た。「センチメンタルトミー」ギャレスヒューズ氏が主演した若人の感傷的の恋の心持を巧みに描ける藝術的臭の高い文藝映画でした。これならもう一度見てもいゝと思ひました。

「セバスチアン」は余り期待したものではなかった。只セットと背景が大きかっただけに止まる。そして五條が若くして熱ある説明をしてくれたので稍々活きた。皈りに井出、門脇、本間の三君にあった。一緒に停車場をブラブラかへった。十二時頃寢につく。

 

十一月一日(土)晴後曇後雨

朝は馬鹿に天氣がよかったのでマントも着ないで行った。十時頃から曇りだしてきたが、五時頃だった。雨が急に降ってきた。恰度皆が歸る時だので社内はガヤガヤして騒がしかった。俺も少なからず吃驚した。だが十時までには霽れるだらうと樂觀した。

剪頭の当番だった。相手は永井、坂卷の兩君だった。坂卷さんの兄さんがきた。永井君が暇になってからピンポンを誘ったのでやりに行った。二十分位もやったかその位でやめちゃった。十時前雨がはれたらしかった。外へ出たら霧雨がふってゐました。蜘蛛の巣のやうな細かい雨が。板垣さんと永井君と三人で、ありもしない空想を描いて、それがどうだとかこうだとか云ひながら歩いてゐた。霧雨が濃くなったので永井君のマントに入れて貰った。二條通で別れた。今しがた濃くなった雨の中を急ぎ足で人通りのないこの道を、暗い道を急ぎました。家へ皈って着物にさわって見たらしめっぽかった。英国の総選擧の結果保守黨は四百十名の絶對多数を得た。それに反し勞働黨は百五十二名、憐れさでいよいよ内閣も投げださなければならないはめなった。勞働黨より以上に慘めな敗を取ったのは自由黨である。僅かに三十九名で領袖であるアスキス翁は勞働黨候補と争って遂に落選した。奉天軍は三十一日午後六時意氣揚々として山海関に目出度く入場した。それに引きかえ直軍は全く戰闘力がなくなってゐるので恐らくその運命は了るであらうと。北京電報によれば呉佩孚氏は南方に逃亡したと傳へらる。又馮玉祥氏豊台に第一戰を敷いたと云ふ。

村田さんから餞別の御礼は手拭と盃を貰った。三年ばかり前だった。(二年かもしれない)

 

十一月二日 日曜 七時起床 晴時々曇

けさの天氣もきのうの天氣によく似てゐた。朝飯後新聞を見てから堤防へ出て行った。

青々とした川の流れは澄み切った秋の空のやうに澄んでゐた。小さい友達が野球試合をやってゐたので入ってやった。妹の足駄の緒を斷るやら爪革《?》を破るなどした。又時間まで予定より僖も遅れてしまった。社へ着いた時は十時半だった。さっぱり仕事が手につかなかった。

細田さんが遊びにきた。シャンなスタイルをしてネ。十一時五十分の汽車で小樽だか何処だかへ行くなんて、あわてゝ十一時十五分前に出て行った。永井君はいやに神經を突がらして見たり、ニッコラニッコラしたりしてゐた。永井君から『文章倶樂部』十一月号を借りてきた。

けさは暖かゝったのに皈りになったら北の風がつくづく身にしみる程ふるえた。久しぶりで二條通を通った。相かはらず人が沢山出てゐた。(魚市やそ菜市に)日の出屋に北水君がゐることを皆川君に聞いていたが今日初めて見た。向ふでは知らなかったらしい。家へ皈ると早速夕飯にぱくついた。お客さんが二人きたが間もなく父も一緒に出て行った。

それに前後して弟も妹も出て行った。『文章倶樂部』の処々を読んだ。小島さんのおばさんが遊びにきた。清水(金)さんから時計を返して貰った。氣の毒な。今晩はなんと寒い晩だらう。

 

 十一月三日 月曜 七時半起床 晴時々曇

 午前中はブラブラして無為に暮らしてしまった。豊平橋へ行って見てきた。十一時頃床屋へ行った。晝頃から小さい友達とボール投げをやった。晝飯も食べないで四時過ぎまで遊んだ。僕初めて赤ちゃんを抱いてみた。あんまり泣くのでやかましかったから。『文章倶樂部』の宮地嘉六氏の『やきもち』をよんだ。夕飯後堤防へ出た。七日月が寒むそうに照ってゐた。

橋の上を電車がゴゴゴゴ-ウと騒がしさうな音をたてゝ通る。錦座へ活動寫眞を見に行った。

「公の命武者修行」なんて云ふ喜劇をやってゐた。「涯なしの海」岩田氏の老船長は物すごい表情、それから押本映治氏の船員鍵の手も對照する程に凄かった。橘の説明もよかった。

「ペンロット」それは少年の風刺劇だった。感じのいゝ。奏樂「ジョンセランの子守唄」はヴァイオリンの獨唱だった。「トラヴァト-レ」は総員二十余名の演奏だ。舞台の上で批評なんか(音樂なんか知りもしないくせに)がらでもない。「人若き頃」久ぶりで諸口、川田の共演で輕い感傷的な温泉町の恋の物語だった。加藤青眼の説明は素敵によかった。ビスケットを買ってきたが父が起きてゐたので、ブラブラあちらこちらを廻ってきたがまだねなかったのでしかたなく家へはいった。又『文章倶樂部』の『文壇暗流誌』をよんで寢につく。

 

 十一月四日 火曜 七時半起床 晴時々曇

 目をさました時にはもうお客さんがきてゐた。朝飯をおぢと一緒にたべた。二面の劈頭に原敬の寫眞が出てゐた。三年前のけふ午後十時何分(?)だかの特急で政友會近畿大會の途上東京駅頭に於いて兇漢中岡艮一(十九)の凶刃にたふれる。獄窓裡にある艮一、今は何を考へてゐるだらう。又政友本黨何如に政友會如何に、憲政會如何に?支那の戰争は直軍は馮軍のため一蹴され呉氏は何処かへ逃亡したとの説ある。家へ皈る途中南一條通で頭領送りを見た。『文章倶樂部』中の十品片岡鉄平の『哄笑』生方敏郎の『虫けらと私』などをよんで十一時頃寢につく。