十月八日(水)雨後晴

けさは雨だ。それに風も加はって烈しかったが十一時頃には雨はあがってしまった。マントを着て行ったがこれが晩には持って歩くやうになりました。第二回目の当番でした。

相手は久し振りで南波、永井兩君でした。八時頃井出君が遊びにきた。九時半ころ社を出た。雨雲のとぎれとぎれから月が顔を出した。日露交渉はモスコー政府の回訓が日本を侮辱してゐるので芳沢公使は憤然誠意なきを攻撃したので會議は全く決裂同樣になったが露国の出樣一つで決裂か調印かになると。十一時頃寢につく

 

十月九日(木)晴

天氣が好いのでもう路が眞白にかはいてゐます。社で十七日の祭日を利用して事務が主催となって石狩へ鮭漁を見物に行くから會員を募集に來たが余り僅かしか行かないので断った。

僕は手稻山登山を決行するんだ。今日は仕事が終ったのが早かったので永井君とピンポンをやりにいった。六時頃までやってゐた。久しぶりなのでさっぱりだった。家へ皈ったら父がきてゐた。夕飯後林檎をぱくりついてやった。堤防へ出て怒鳴ったら馬鹿に好い声が出た・・・・。自分の記憶の中で一番好い声だと思ふ、クソ・・・・・。家へ皈ってきて又ぱくりついてから富貴堂へ父の使でいった。(なんて体裁が好いぞ)運動雑誌を見てから父にたのまれものをきいたけれどもなかったので維新堂へいった。移轉してから初めて買って來た。

これも父にたのまれし赤い手帳鉛筆を。それから二十分ぐらゐ本をひやかして出た。狸小路を通った。古本屋の前へいったけれども好い本がなかったので其のまま家へかへって十一時頃に床にはいる。

 

十月十日(金)雨後晴時々曇

明方から降った雨だらう。床の中で家根(屋根)に落ちる物凄い雨の音。九時頃雨雲は東へ行って青空が一面に出て陽は照りだした。時々雨が降ったり、曇ったりした。九日の北京電報に依れば直軍と奉軍の天下分け目の戰ひと目されてゐた山海関の激戰に八日午後五時より総退却を開始して秦皇島に本部を退却せしめた。今日から上映される錦座のカルメンの映畫化した「灼熱の恋」を見に行くなんて社内で騒いでゐた。俺も湯へいって貰う積りで入ったが皆んなやってしまったので貰ひそこねた。家へかへってから又林檎をぱくりついてやった。十三日月が照ってゐる堤防へ出て又怒鳴ったがきのふのやうな声は出なかった。向ひの煉瓦屋のをじさんに會った。鮭の話をした。南一條橋下に夜明方ゆくと鮭が沢山で、ほりを大きなのを掘ったと。『改造』の『没落』河東璧梧桐氏作のを第四章の中頃までよんだがあとは睡魔におそはれて眠ってしまった、十時頃。

 

十月十一日(土)晴後曇

この頃毎朝起きると皆が飯を食べた跡(後)です。けさもさうでした。天氣が好かったので久しぶりで堤防へ出て豊平橋の方へ行って見た。付近の堤防も出來上がらない。橋上は後から後からと人通がはげしかった。西の方の山、藻岩山も皆な赤味を帶びてゐるのが太陽の光線の工合ではっきり見える。木の葉のしげみも。もうこんなになったので北の国は、川の水まで青々と澄んだ深渕サワサワと急がしい瀬々(せせ)らぎの音。道行く人々も白ズボンなんか目だたなくなった。二時頃だった。馬鹿に騒々しくなったので釣りこまれて行って見たら北一條通を西へ北軍の行軍でした。けふから旅圑演習が三日間開かれることになった。此の間から左右の乳のあたりが針でチクチクさゝれるやうな痛みをおぼえるやうになった。心臓が悪くなったのだらうか、それとも肺病にでもなったのだらうか。南波君と当番を明後日と明日とを取り替へた。又今日石狩行きが復活した。強制的に皆を勸誘してしまった。そして會費を一円に下げた。俺も勸誘されちゃった。日没方から怪しい雲が出てきて大空を一面におほってしまった。六時だった。ザツト雨が屋根にあたる音がしたが間もなくはれたが又ふった。余程「灼熱の恋」を見にゆくつもりだったが雨がふってきたので思ひ止めてしまった。ゆうべの『没落』河東璧梧桐氏の続きを読んだ。それはある新聞社の起こった株主と記者達のストライク(キ)を巧みに記したものだった。八時頃からマンドリンを彈いたが思はしくなかった。水車小屋の時に奏樂に森の娘の唄をかなでた。それが馬鹿によかったのでその歌を見つけて唄った。十時床につく。

 

十月十二日(日)曇時々雨後晴

五時ころから砲声の音が聞こえた。何でも手稻髙地附近でやってゐるそうな、旅圑演習が。

いやな天氣だ。ふるのやらふらぬやらの空模様であった。久しぶりで六時半頃起きた。

九時近くになってからポツリポツリやってきた。社へ行った。永井、山本君と三人で中央のグランドでボール投げをやった。一年位前一緒になげた時と空はけさも変わらなかった。

ポツリポツリとやってゐた。十一時頃だった。あんないやな空が急に青空が出てきて太陽が照りだした。小春日和になった。晝飯を食べると何だか左側の心臓のあたりが苦痛を覚えてきた。余りボールを投げたからだらうか?四時頃だ。福徳君がきた。北大予科對髙商の野球は七對零にて北大慘敗した。当直だった。相手は井出、永井の兩君だ。第三回で第二回は井出君の代りに南波君だった。今晩は三人で久しぶりで笑ひながら仕事をした。東京新聞の切抜きを盛んにやったよ。八時半頃から娯樂室でピンポンをやった。盛んに油を乘せたので三人ともよく入った。井出君が時々醜体(態)を演じたので笑はせた。

九時半頃社を出た。今夜は幸ふくに暮らした。大きく息を吐くと左側の心臓がいたむので何となく不安がしてならない。月が馬鹿によかったので堤防へ出た。俺はまさか月にみせられたのではあるまいか。うたをうたうつもりだったが左胸がつかへていゝ声がでなかった。

いもを食べて寢につく、十一時。

 

十月十三日(月)晴

六時半頃眼をさましたが左胸のことを考へたら床から出ることが自分の一命が刻々とちゞまってゆくやうに思はれた。それから色々な不安がおそってきた。此の儘いつまでも床に入って此の身体につひてつい色々な空想を描ゐてゐたかった。父の鋭い声が「忠!起きろ・・・」と云った時俺の空想は破れた。床を出た時七時半だった。公休日だったので心が緩んで床を起(た)たむ氣にも顔を洗ふのも大儀であった。けさは朝から空一面には一点の白雲をも、見出ださなかった。ブラブラ豊平橋へ足が向いた。橋の上で札幌商業の生徒が優勝旗を先頭にして意気揚々と母校へ向った。後で聞いたら相撲大會で優勝したのであった。開校してなほ浅けれど優勝旗二本も得てゐる。かって本紙に連載した野村愛正氏の『乱舞の島』の斎藤五百枝氏の插繪に永瀬甚五郎と云ふ人物が出た。その插繪によく似た人を橋の上で見た。背の低い肥えた脂ぎった好色家らしい顔、大きな出張った腹・・・を霜降りのオーバーに身を包み後ろへひッくり返りそうな格好をして俺の前を過ぎ去った時、思はず「フフフ―」と吹きだして一人で笑っちゃった。十二時だった、朝端の親類の家へ行く積りで家を出たのは。

北中の校庭の処を通った時、白いユニホームがグラウンドにちらばってゐた。流石は運動の盛んな學校だと誰しも思ふだらう。校舎の横の掲示板に運動部の予告や結果が發表してあった。隣の札商の前を通ったとき札商野球部の伊豆本や朝妻等がテ二スをやってゐた。四十分後に親類の家に着いた。林檎畑へ行って正八ちゃんとたくさん拾ってきた。四時頃さやうならをした。斎藤さんの処へ使いに行くのを其儘に錦座へいった。途中で社の友達に會ったので入るのを遠慮した。稍たってからはいった。

「映畫になるまで」と云ふ實寫が初まったばかりだった。「坊やの復讐」は輕い正喜劇だった。そうして感じの好いやつだった。「ロッキーのばら」は大自然のキャナダの森林を背景に起こった奇しき恋愛復讐物語でした。「天国と地獄」を奏樂にやりました。人氣の焦点になったナルメユ氏作カルメンの映畫化したもので、日本人に適さないので背景を隣国支那に取った。「灼熱の恋」と題した背景やセットの大きいこと近來にない大作?そして関の説明、得意の前置きは觀象(衆)をして寂寥とし、せき一つ出なかった。関はタイトルを尊重するやうになったのは好い事だ(それも元よりか)八分か九分の入りだった。十一時頃終はった。外へ出たら身振るひしてしまった。風の寒い事、十一月頃の氣候だった。

家へ皈ってから勝男と二人で豊平橋詰のミルクホールでミルクとコーヒ(-)をのんで身体を暖めて家へ皈るとすぐ床に入った。十二時頃だった。

 

十月十四日(火)晴

永井君からモ-パッサンの『女の一生』廣津和郎氏訳を借りてきた。夕飯後、堤防へ出たら豊平橋の上を兵隊さんが沢山豊平町の方へ行きました。間もなく二、三發の銃声に鬨の声が、黒山になってゐました。白軍の追撃隊が赤軍の後部隊と衝突したのでしたが赤軍が逃げました。學友の皆川と會った。皆川君と家で三時間近く色々な友達の話をした。橋の袂で白軍の機関銃が一門すえ付けてありました。その機関銃の操縦者(人)が種々な話をしました。

家へ皈るつもりで堤防を通ってきたら足元に二、三尺ばかりの細長い物が十本ばかり、月の光でピカピカと光ったから吃驚して二、三歩後退りしました。よく見たら堤防の陰に兵隊さんが十人ばかりゐて俺の顔を皆んながジロジロ見てゐた。クスクス笑ってゐるやうでした。

十時半頃寢につく。

 

十月十五日(水)晴後曇

晝前は馬鹿に好い天氣だったが晝過ぎから天候が俄かに曇ったが一時だった。支那動乱の火蓋を切った盧永祥は上海を捨て日本に部下十名と共に亡命したと外電にあった。三方を敵に圍まれてゐたがよく一ヵ月半固守した。九時半頃寢につく。