九月四日(木)晴一時雨

朝は馬鹿に良い天氣だったが十一時ころ急に空が眞黒になって大粒の雨がやってきたかと思ふとピカリ、ゴロゴロと雷がなる。それと同時に底がぬけてきたやうな音を立て降ってきた。道路はまたゝくまに大河洋々と流れだした。大きな音を立てゝ雷が三回ばかり鳴った。

そのうち一つは山鼻の並木街に落雷した。その木の下で雨をさけてゐた天主堂教會の宣教師が脳震盪(トウ)を起こして即死した。こんな悲しい事が僅か四十分近くの出來事でした。

一時間後には雨は完全にやんで陽がカンカンと照らしてきました。太陽が西の山に姿を没した頃向かひの三ちゃんと何時もの処へ泳ぎにいった。川は近頃馬鹿に生温るいやうである。

勝男と二人で斎藤さん家へ魚を持っていった。家へ上がって西瓜や林檎をたべた。歸りに西瓜と林檎を貰ってきた。豊平通りで山本君にあった。

家へ歸ってから西瓜を食べたら頣がぬけていきそうにうまかった。今まで西瓜をたべたがこの西瓜ほどうまかったのはなかった。豊平小學校の処で活動寫眞を見てきた。十一時半比(頃)床につく。支那は内乱で大騒ぎである。

 

九月五日(金)晴

なんとなく身体が寒む氣がするので眼を醒ますと、弟達はもう御飯を食べてゐますのであはてゝ床を抜け出ました。九月に入ってから馬鹿に朝寢坊をするやうになりました。今朝口を洗ふ時ラヰオンはみがきをおろしました。けさの三面に大谷の飛行機がけふの十一時に札幌へ來るって出てゐましたが二時になっても三時になってもきません。どうどう(とうとう)けふも市民をいつわった訳です。

二十六日にくるなんて云ってゐてけふまで四、五回いつはってゐるんです。いっそのこと中止をした方が宜しいでせうよ。髙商主催の札樽中學野球が二十一、二十二の兩日公園グランドで開くんで鳥屋の人と行く事を前から約してゐたので公休日を二十六日と二十一日のを取替えて貰った。三時頃窓から外を見てゐると學友だった皆川君が自轉車で北へいった。例によって家へかへってから泳ぎにいった。一人で盛んに泳いだ。余り疲れたので一休みしてから又泳いだ。それが悪かったか頭に熱を持ったがしばらくたったらなほった。

南波君と当番をあさってとあすとを取りかへてやった。夕飯後炉ふちで新聞(東毎夕)をよんでから新聞を抜萃したり、貼ったりして十一時半ころまでかかった。母は親類に金をかしたが拂わないので盛んにくどいてゐた。十一時十分ころ寢につく。

 

九月六日(土)晴

堀君が朝日スポツ(スポーツ)をとってきてくれた。中等學校野球大會の全国争は戰記がのってゐた。当直だった。相手は井出、松本の兩君だった。今晩は十時二十分ばかり過ぎてゐた。家へ皈ってスポツ(スポーツ)を見た。床につく時一時十分すぎだった。

 

九月七日(日)晴時々曇

夕べの疲れでグッスリ八時ころまで寢込んだ。公休日だった。學校の庭で弟達めにコーチしてやった。あまりあつかったので川へ泳ぎにいった。水はそんなにもつめたくなかった。

二時頃一中のグラウンドにゆくべく中島のグラウンドを横切った時實業圑の優勝戰が始まったばかりだったので一回戰を見てすぐ一中へいそいだ。三時、試合は開始された。

北中五回までに二對一にておされてゐたので主將小林馰君が出馬したため形勢逆轉して六、七回に総攻撃が開かれ一擧五点を獲得して大勢決したと思ひきや、札商八回に二点を入れ九回に手島打たれ、矢村を出したが、安打二本に四球一で二死滿壘となり次打者主將伊豆本、投手抜きの安打に二点を入れ六対六にて補回戰に入る。十一回の裏、二死後走者三壘・一壘にある時一壘走者二壘に走ったのを見て投手田中、遊撃手に投ず。タッチしてから落球したのでセーフになり、三走者本壘に走り貴重な一点を入れ七A《アルファ》対六にて北中惜敗した。家へついた時七時半頃だった。夕飯後切抜きを貼った。十時半頃寢につく。

 

九月八日(月)曇

けさ明方雨がふったが間もなくあがったが、なんだかふりそうな天氣だったが一日中ふらなかった。一時頃下へ時計の月賦賣りがきたので皆んなが買ったけれども、家へいって聞いてから買ふことにした。五時十分ころ社を出た。弟達のチームのコーチをしてやった。

久しぶりで夕飯後湯へ行った。湯槽で小さい子供達が不ざけてゐた。永井君から『我が袖の記』『たけくらべ』髙山樗牛、後者は樋口一葉兩氏の作品で二氏とも明治時代の大作家であったが若くして死んだ。『我が袖の記』を十四頁まで讀んだ。母と二番の妹は狸小路から西瓜を一つ買ってきたので皆んなでぱくってしまった。妹や末妹等も一口も口にしなかった。明日の朝六時から弟達のチームコーチを付けてやることとした。鍋燒きうどんの声をきくやうになった。十時頃寢につく。父母は十八円位の時計なら買ってよいといった。

 

九月九日(火)曇後時々晴

小さい友達は五時半もう家へ起しにきたので顔を洗って早速會社の倉庫前の空き地へいった。ウォミングアップから各々シフトについて練習した。俺はノックを打ってやった。練習すること約一時間七時近くに第一回は終はった。こんなに早く起きて運動したのは八月中にもなかったらう。社へも九時二十分前頃にいったのは今月に入って初めてであらう。

晝過ぎ時計屋がきたので二十四円のを買った。社内にはすっかり時計熱になって、外の部の人は工場の人はみんな成金になったねなどと馬鹿してゐるのを耳にした。永井君たちと二條で別れた。例の処で泳ぐ人と一緒になった。家へかへって泳ぎにゆく積りで堤防へあがって見たら釣りをしてゐる人が三、四人ばかりいたので思ひとめた。夕飯後『我が袖の記』を持って川辺で三十分ばかり読んでゐるうちに日は全ったく没して十一日月が川面に金波銀波を漂はせてゐたので、家へ一端皈ってから本屋を目差して一條通り眞直ぐにいった。終点の所へ電車がとまって下車した人の中から友人の武田さん(友達とは失礼ですが)にあった。

本屋を一時間近く素見して狸小路をでた時コーヒ(-)をのみたかったが我慢して本屋をひやかして『婦人公論』を一冊買って家へかへってから母さんに西瓜を買って貰って皆んなで食べた。今晩の西瓜の味はきのふよりうまかった。鍛冶さんや父は、日本問題についての講演會を太平館へ聞きにいったそうな。けふの天氣はふりそうな天氣になっていたり晴天になったりして過ぎてしまった。十一時四十分寢につく。

 

九月十日(水)雨後晴時々曇時々小雨

父の使いで郵便局へゆくべく九時十五分前に家を出た。局の前までいった時あんなに天氣がよかったのに急に雨がポツポツふってきた。北西左の空を見ると雨雲は空一面をおほってゐた。局で使いをしてゐたらザアーザアーと物凄い音をたててふってきたので用がすむと早速社へ飛びこんだ。それからものの五分位たったかと思ふと尚一層烈しくふりだしたが間もなく小やみになったが又ふりだした。その時雹もまじってふってきた。それも一時だったが雹はふらなかったが大分続いたので今までの乾いた道路も黄河洋々と流れを幾つも作った。

けふは二百十日だのにこんなにふってはと思ったら午後から雨はあがったが風強くて雲足早く曇ったりの天氣になったりした。時々小雨もふった。けさも五時半頃友達に呼び起こされ、きのふの所へいって六時四十分過ぎまでノックを打ってやった。けさもきのふと同じやうに声をからしてしまった。皆んなも稍々覺えたらしいがまだまだ練習しなければならない。門脇君が三日間公休日を続けて(自分の勝手に出來る)旭川へあそびにいったのはけさだったそうだ?支那の内乱益々紛糾して擴大しつゝありと北京電報に報じてあった。問題の大谷東本願寺の飛行機がけさ八時半ころ漸く札幌へ着しました。

これで怎うやら胸をなでおろしたわけだがこれからだよ、本道の宣傳は。前途に幸あれと祈るらむ。けさも、家へかへってからも『我が袖の記』をよんだ。『況後録』も全部読んだが『わが袖の記』の方がはるかにうまいやうな氣がする。弟達のチームは十四日の朝大平たちと試合するといふことにきめた。豊平橋の傍への小公園へいってあそんできた。夕飯後鍛冶さんたちと社會主義者論を論じた。堤防へ遊びにでる十二日月は金波たゞよひ銀波流れなんともいへぬ眺めであった。鳥屋の人と豊平を一まわりして家へかへって狸小路へコーヒ(-)をのみにいった。かへってきて床につく時十一時四十分位だった。