新聞の切り抜き昭和六年四月二十二日(水曜日)第一万四千四百號「春宵スナップ」

輝く明星 先生を泣かせた綴り方年の暮れ《六》プロレタリア少年の樂園

      四月一日、いたいけな少年の頭に一番深く刻まれてゐる日付だ。雪に閉ざされてた北國の少年達はカレンダーの4・1をどれ程待ちあぐんでゐるか知れない。四月一日は日本の子供達が入學と進級で小さな胸を躍らせ喜びを包みながら新學期の初登校の日だ。

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      親にねだって新しい學用品を買って貰ひ一日の初登校の日を指で數へたり又罪のないまどろかな夢にまでみるのだ。惠まれた親の愛に抱擁された子供達が春、新学期を賞め稱へ初登校の日を樂しみに待ってゐる時家が貧しいために學校へも行けず街頭で働き親を助け夜は、世間の子供が活動だ。眠いから早く寢るなんて云ひたい時刻溢れる樣な向學心と輝やかしい希望を抱き夜間小學校に通っている者のあることを見逸してはいけない。

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     凾館大森夜間小學校、此處では涙ぐましくも可憐な子供が晝の働きで疲れた體で魔物の樣に襲ひくるねむりと戰ひながら勉強してゐるのだ。大森夜間小學校はプロレタリア少年のための唯一の學校だ。晝は大門で太鼓を叩き通行人から喜捨を仰ぎ盲目の母親を養ってゐる少年、工場に通ふ勞働少年、カンカン虫の少年、白いヱプロン姿の女中さんや子守りの少女等が通學してゐる。この他に六十歳の老人が二人、この歳だと還暦の祝ひをあげ何處の老人も老いぼれの第一段階を踏出し孫を相手にすっかり隠居樣に成りすますのが普遍化した今日だ。

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      然るにこの兩老人はすこぶる元氣發らつたるもので六昔の若い時代學んだ勉強は糞にも役に立たない。現代社會に生きるためには新しい勉強が必要だと偉い見榮を切り毎日孫に等しい子供達と机を竝べ先生の云ふ事も一語もらさずと耳を傾けてゐる。さうかと思へば三十歳を越した年増婦人。人妻の身であるけれど無學は恥じだと、通學してゐる二人。     

      その他に或る大會社の職工で廿七歳の青年、晝の過激な勞働を終ると夜は子供達と一心不亂に割算掛算歩合、巻三の讀本等の勉強、凾館裏にはこの樣な涙ぐましい悲壯な努力家が實在してゐることは往々にして忘れ易いのだ。

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      大森夜間小學校は特殊的機關だから氣の毒なルンペン少年やプロレタリア少年のため毎日午後六時からパンとミルクを御馳走する。おそらくいぢらしい幼少年達は學校が饗應するパンとミルクをどれ位樂しみに登校してゐるか知れない。學用品や消耗品も皆同様だ。凡て學校が施して呉る。これは少し古い話だがある年末に同校少年が作った『年の暮れ』といふ綴方に 「正月がくると友達は喜んでゐますけれど私は正月のくることは悲しくてなりません。私の家の赤ちゃんはお母さんに乳をねだってますが、家は貧乏で乳さへ買へません。よそでは障子張りをしてますが、私のうちでは紙を買へません。もちをつくのを見ては小さな弟が母を泣かせます」といふ意味のものがあって先生を泣かし、やがては街頭に進出して勞働組合闘士諸君によって失業反對演説會の檀上から『この作文はそもそも何を物語るか?』と叫ばれたものだ。

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      肩書きづきのルンペンインテリが本の一頁はおろか一行も眼を投ずることなく毎夜の樣に春・春のオン・パレードに誘はれてカッフヱ、酒、女、球、麻雀、春畫、映畫等々の頽廃的な没落意識の泥沼へ深く深く沈んでゆく時、賢い少年は讀む人の胸をゑぐる樣な綴方を作り、或はまた文盲を恥ぢ勇敢に夜の小學校に通ふ老人、婦人、青年、勞働者がゐる。だが彼等は大凾館の夜に輝く明星なのだ。

 

    写真 《新聞の写真と同じもの。裏には渡島版の押㊞》

 

 封書 《封書もアルバムの中に挟んでありました。茶封筒です。十円切手 三島30.5.2消印》

      宛先 北海道札幌市(省略) 後藤忠様 同芳子様

      差出人 静岡縣三島市谷田 国立遺伝学研究所 酒井寛一

      こないだ去る十九日上京して田中捨吉君の家にゆき、伊藤幸二君や中条君にあって、あなた方の御愛情こもった寄書きと御厚志の賜を頂き感涙にむせびました。何ともお礼の申上げようもありません。ずうっと昔あのガタガタの校舎で夜毎に勉強した交わりがいまこのようにして、私を助けて下さったとは、夢にも考えなかった有難いことでありました。

      今日はまた谷口君から速達でお写真を頂き早速お手紙を差し上げる次第です。十九日は丁度東京は折あしく雨降りでしたが、ズブぬれになった中村幹枝氏姉妹が來てくれて、会った途端に握手した小生の手を、あのごつい左手でピシャピシャ叩いてキャーキャー奇声を発し、呆然自失しました。しかしそれはお互いに東京で会えるとは思いもよらなかったのですから仕方がありません。それにしても奥樣の水木芳子樣とはびっくりしました。いつか冬の最中、あの桑園の十二丁目だったかの電車通りの家に、武樋さんを訪れて、色々とおせわになったことを今でも忘れずに覚えています。

      去年は私も春と夏に、農業試験場と北大とによばれて、二度も札幌に行きました。その時何故皆さん方にお会いしなかったかと今更ながら後悔されます。

      私は四日に横浜を発つ予定です。十九日頃ロサンゼルスにつき、ウロウロとうろつきまわりながらニユーヨークまでゆき、また方々を訪ねて、八月末か九月初めに帰ってきます。帰日後はまた皆さん方とお会いできる日もありませう。その時を樂しみにしています。どうぞお元氣でお幸せに                                                                                                 

四月三十日                            酒井寛一