日本一、世界一の校長 われ等の誇るべき校長 感激の涙ははふる勝鬨の万歳

 新渡戸博士と遠友夜學校

『我等の校長さんが見えた』日頃寫眞に見、噂に聞き日本一いな世界一の校長さんと有難く誇とし長い間憧れてゐた我等の校長さんが札幌に着く。校旗を押し立て驛頭にお迎へした時、『御苦労さん』と云った。そして溢れる樣な慈愛の眼、それで充分感激の心で一杯だったのに、連日連夜の講演にお疲れの身でわざわざ學校を訪れ、それも一つ一つ教室の隅から隅までめぐって我等の勉強振りを見て下さった。電燈の光を手影にしてゐる生徒のそばに行っては心配そうに、よく見えますかとそれは何といふやさしいご注意であらう。

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 家が貧乏で晝間は八時間も十時間も一人前に稼がねばならず勉強したくても學校に上がれない、自分達がこうして一通り讀み書きを覺えたのも元々はみんな此の校長さんのお蔭でないか。

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 中には三十六といふ阿母(おかあ)さんみたいな年で尋常二年生のお勉強をしている人さえある。それも一日や二日の事ではない。明治二十七年から今日まで三十九年といふ長い長い間の兄さんも姉さんもあそこの叔父さんも叔母さんも、その卒業生の數がもう七百名以上なってゐるのだといふ。

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 御蔭樣で皆一人前の人となり、眞面目で安心して働くといふので殊更世間の評判もいゝ、有難いことだ。そして今その校長先生に初めてお目にかゝって見れば、また聞きしにもまさる何といふやさしい偉い方であらう。

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 校長先生のお迎への言葉を述べた總代の生徒は、到頭涙に咽んでしまひ二百名からの下は十才から上は四十近くまでの全部の生徒は鼻をすすり、来賓の人ももらひ泣きをしてしまった。

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 十八日、豐平橋畔札幌遠友夜學校に新渡戸博士が校長さんとして二十二年ぶりに歸って來たその夜の光景であるが、今の世にもこんな美しい世界があるものかと感動の外はなかった。

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 博士夫人(萬里子)はアメリカの人であるがその父君は非常に世話好きな人で、或る日路傍で拾った十四、五の娘を家に連れ歸り、養女として大事にそだてた。その娘は年頃となってもよそに行くのがイヤで、六十幾歳まで忠實な家政婦として働いて天に召された。

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 その時長年月食ひたいもの着たいものを我慢して貯蓄した金がいくらかあった。遺言を見るとその中から二千弗をその時もう博士に嫁してはるばる札幌の地に住んでゐたお嬢さんに届けて呉れ、と書いてあった。博士夫人は或る日此の思ひがけぬ四千圓の大金を受け取った。

有難い心だと涙を流した。

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 無駄には使たくない。何か人のため、氣の毒な人のために使たいものと博士に圖った。その頃博士の胸の中には今の夜學校の理想があったが、肝腎なお金がないので困ってゐた。夫人はもとより手を打って博士の理想のため全部を捧げる事になった。

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 南四條東四丁目一番地の今の學校の敷地と元の校舎は此の尊い金で買ひ取られたのであった。

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 アメリカといふ遠い遠い處に居る友達、名も知らないしかももう天國に逝ってしまってゐるその遠友の名に因んで、札幌遠友夜學校といふ名前も生れたのだといふ。

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 その夜校長さんは開校以來講堂に掲げてあるリンコルンの話を引いて、『單なる知識を學ぶのでない、人間として立派な、正直で、一生懸命でいつもニコニコと明るい人間になることが学校の本當の精神です』と語り、

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 『學問より實行』と揮毫して、また『二十年したら參りませう。その時は私も九十になりますがそれでは再會を樂みにして皆さん、さようなら』新渡戸校長万歳の聲は勝鬨の如く、博士の姿の消えるまで鳴りやまなかった。

 博士今日の日程 新渡戸博士の今日二十日の日程は午前十一時半から中央講堂に於て、博士から札幌農學校教授時代教へを受た高岡博士から森本博士あたりまでの『門下生の集り』に臨み、午後は一時半から同講堂で農學部主催の『國際經濟と人口問題』を論じ、三時三十五分の汽車で小樽に向ひ市内視察の上、夜七時から稻穗小學校に於て『偉人群像』と題し

講演する云々。

写真92 二十二年振りで見えた我等が校長との劇的シーン・・母校にて1931.5.18.

写真93 北大・札幌市共催の下に「国際聯盟と日本」と題する講演をなした。於北大中央講堂1931.5.17. 

写真94 校友生に囲まれし我等が父新渡戸稻造博士(中央)於遠友夜學校講堂1931.5.18. 

写真95~103 小別沢へのピクニック1931.4.29.

    (一)勢揃ひ・・円山にて、(二)サア仕度にかゝらう、(三)まだ飯には間があらう、(四)待ちあぐんだ飯だ。たのしい飯だ!(五)誰でせう?レコードホルダーは、(六)テーイタイム、(七)札幌市を望みながら、(八)トンネルを睨んで、(九)円山終点でパチリ

写真104 山崎君の入營壯行会1931.2.22.

写真105、106 金木君二枚1931.4.

写真107 大坊君

写真108 齋藤銀次郎君1929.11.27.

写真109 吉田君

写真110 四郎ちゃん

写真111 中村君

写真112 酒井寛一先生

写真113 森下波翠氏

写真114~123 第二回山岳踏破・・・銭凾から定山渓へ1931.6.14.~15. (一)銭凾峠近し・・・あたりは小霧が深かった、(二)ヒッテ(ヒュッテ)に着いた一行九名の伸びた顔、(三)ガンビ(がんぴ)にサイン・・沢合会へルべチュア訪問、(四)小屋を去る朝、(五)清澄な肌を見せる白樺をバックにして、(六)白樺の林は續く、(七)熊の足跡を逃れてホッと一息する一行、(八)ロップを手繰り難行を續ける一行、(九)湯の町近し盛装した一行・もみぢばしにて、(十)エロ?湯槽にひたり哄笑する一行

写真124 《がんぴにスケッチ》 へルべチュアヒュッテの全景 忠スケッチ1931.6.15.

写真125~130 夏のピクニック1931.7.19. 渡辺春江氏皈りて

     (一)島判官碑をバックに、(二)春ちゃんと幹ちゃん(坐せる人)(三)緑したゝる崖の下で にこやかな晝鍋 、(四)特(得)意のティータイム、(五)宝耒橋上にて、(六)たのしい一日を了へて・・円山にて

写真131~133 眞駒内櫻ヶ丘に遊ぶ私達 1931.8.30.

     眞駒内のプラットホームで、或るピクニックの一群

写真134~137 上手稻不動明滝への清遊1931.9.13.

    (一)沫の中で、(二)全景1931.9.8、(三)夕陽を浴びて?コバルトの空に浮く雲の姿も夏を偲ぶ、、(四)はなれ岩の沢合会員

写真138~143 雨のピクニック1931.10.17.

    (一)雨具の用意をして何処へ行く?、(二)三々伍々ぬかるみを歩む、(三)陽なたぼっこ、(四)宿のほゝえみ、(五)記念のボーズ、(六)すました顔はいかむ顔―笑い顔―