前略 御免下さい。ただいまお手紙拝見いたしました。いろいろ遠友夜学校についてお調べのことですが、私も昭和十三年三月、中等部入学、卒業しましたが(女子二名でした)詳しいのはわからないのです。一年の二学期まで札幌逓信講習所にはいり、休学しましたが、一年間ですのでそのままもとの二年に復学しまして、中央電話局に配属されて卒業まで通いましたけど、何せあの戦時中でしたから電報という重要な仕事に就き、男子は皆出征しましたので、若手の女子が先頭に立って働きましたので、家に寝に帰るだけの有様でした。それで休んでばかりでしたが、一応女子二人は卒業証書をいただきました。

『遠友夜学校』が一番詳しく書かれております。私も発行されたときすぐ買って読みました。遠友会にも電話しましたら、もう皆年をとって何もしていないといわれましたので、それきりになりました。私は主人の転勤で札幌に帰り落ち着きましたのは昭和四十四年のことです。お友達もわかりません。遠友会に出ていた大沼弘志さんは私の一級下で、私の友達も国鉄でご主人が知っていましたのでお電話したのですが、お会いしたことはないです。記念の集会などないのではないでしょうか。存じませんが。遠友は先生が北大生ですので、今考えれば年も近いし、若い情熱で教えられ本当に楽しかったと思います。日曜は春・秋皆で円山の奥や、野幌の原始林など、夏は男子は歩いて銭函まで(夜学を夜発って)行きました。とにかく先生と生徒が一体となって楽しかったですね。ぼろ校舎で冬は大寒でした。寒いのに窓が吹雪でガタガタと鳴って、生徒は上学年で四、五人となりましたので、よくオーバーを着てだるまストーブを囲んで先生とだべったものです。社会人としては生徒は経験者でしたので生徒の話も先生は興味を持って聴かれていました。

 小さな講堂(と呼んでいましたが)、運動場は式のとき全校生徒が集まって半澤先生や髙倉先生のお話を聞きました。また、弁論大会や学芸会も盛んでした。(私の一年のとき)正面には何時も「学問より実行 稻造」の額がありました。そこに新渡戸先生と萬里子夫人の写真が何時も掲げられてありました。有島記念館にあるのと同じです。教務室には年配のおじいさんの事務員が居り、女子は毎日そこの掃除と決まっていました。女子は一年のとき十名くらいで全部で百名、二教室でした。

戦争で人手不足で夜学に通う余裕もなく皆やめたと思います。私は北大の給仕をして(十五のとき)高等科卒業後働き、中島の市立高女の夜学実業女学校に二年通って卒業、遠友を知りまた一年生に入ったのです。英語を基礎から習いたかったのです。途中、局に入りまして、勤務時間が不定期でどうも無理と思いましたが、何かあの学校は楽しい、何か魅かれるものがあったのです。先生の若い情熱と真心ですね。公立の夜学は今思うと高等師範や津田塾でられたそうそうたる方でしたが、遠友は比べたら校舎はぼろで先生も北大生ですのに、何か心にしみるものがあったのですね。

今、一番忘れられない学校ですから。取り留めのないものを書き連ねました。実は明日一番にて九州のほうに旅に行きますのでとり急ぎ書きました。遠友塾は何か遠友と関係あるのでしょうか。先生方もあまり関係なさそうですよね。戦後五十年経って昔の夜学のようなものはないですよね。皆恵まれて、先日ちょっと参りましたがカルチャーのように思いました。では失礼いたします。

《次に、『思い出』に寄稿されているのでその文を載せます。お手紙と比較していただきたいと思います。題は「戦時下の遠友夜学校」です。》

 

 私が入学したのは昭和十三年である。当時、私は北大で給仕をして働き、公立実業夜学(女子二年制)を卒業、英語を初歩からしっかり習いたいとの思いで遠友中等部に入ったのである。入り口の左の講堂の正面に「学問より実行 稻造」の書が掲げられ、中等部新入生百人、そのうち女子は八人であった。私は数え十七歳、男女共学は始めてである。校長は半澤洵先生、副校長髙倉新一郎先生で、祝日や開校記念日には必ず新渡戸先生のことを話された。先生はほとんど本州出身の北大農、医の学生さんで、腰に手ぬぐい一本ぶら下げ、大きな声を張り上げて若さあふるる明るい授業であった。生徒も昼の疲れをうち忘れ、その一途な情熱に溶け込んでいった。試験が終わった学期末には(学)級会が開かれ、先生方も得意の詩吟や歌曲を披露、生徒と一体になって一夜を楽しんだ。

私はそのときの詩吟に聞きほれ、五十歳から習っている。国語の先生は「綴方教室」の本を貸してくださり、作文に熱心でいつも私を励まして、作品を学期報に載せていただいたりした。年に一度の学芸会も、先生方の脚本演出で一生懸命演じたものである。春・秋の日曜日は全校ピクニック、晴れ上がった青空の緑の中の一本道を皆で歌を歌って円山の奥へ奥へと一日歩き回った。小川の辺りでほおばったおにぎりの美味しかったこと。夏は海水浴、男子は授業が終わってから銭函まで歩き、女子は翌朝汽車で合流した。

 こうした活気に満ちた学校も二年、三年後生徒は半減した。公立の中学に、夜学に、また戦争の進むにつれ徴用、予科練、そして入営する生徒も出てきた。どの職場も人手不足で、夜学を続けるには困難な世相となっていった。

 入学以来、教務室の当番は女子で、いつも壁には新渡戸先生と萬里子夫人の写真が微笑んでいた。一月の凍てつく夜、珍しく初等部から七、八歳ぐらいの色白の可愛い女の子が二人来た。雑巾バケツに入れたその手を見て私はびっくり、ひび、あかぎれで真っ赤に腫れ上がった細い小さな手「毎晩来たいんだけど忙しいからなかなか出してもらえないの」と言う。間もなく姿を見ることがなくなった。この札幌に今でも義務教育の小学校に通えず、夜学にさえも来られず親元を離れて働く少女、私は強い衝撃で忘れることが出来なかった。今でも寒中になると思い出す一つである。また、猛吹雪で北風がポプラを鳴らし、窓はガタガタとひしめく夜は登校者も少ない。五、六人集まってオーバーを背にあまり燃えないストーブを囲み、先生とだべったものだ。一応、社会人の生徒の話に先生も興味を持ち、うなずいたり、助言されたりした。

 戦争も次第に色濃くなり、身に迫り来るものを感じ時局の話もよくした。廊下続きの先生の寮からも出征兵士の送られる声が響いてくるようになった。私もその間、札幌逓信講習所を卒業、札幌電話局に勤務し、夜勤、宿直も女子がするようになり、軍事電報、警報伝達等々、とても夜学に行くことは出来ない。でも何とかしてやめたくないとの思いがあの学校にはあったのである。

 昭和十七年三月卒業、中等部二人、初等部八人であった。

 ここに開校五十周年(昭和十八年六月十八日)の時のセピア色の一枚の写真がある。あれから五十年、本年(1994年)は遠友創立百年記念会に参加させていただき、そのときの旧先生と生徒代表の方のスピーチに、その強く温かい心の絆にただただ感動した。今から百年も前、あの地に学校を開いた新渡戸先生は本当にお偉い方だとつくづく思う。またそれを継承された先生方の精神は永久に語り継がれるであろう。それにしてもあの戦争で前途有為な立派な先生および生徒が散っていかれたと思うとき断腸の思いがする。

 私も、何事もひた向きだった遠友時代が一番懐かしい。よき出会いに恵まれ、人生に大きな支えとぬくもりを頂き感謝している。何のお返しも出来なかったが、電信の技術が生きて子供らが大きくなった頃から頼まれ二十五年間、六十三歳まで昔の職場に臨時職員として働いた。ささやかなものも自分の幸せと思い、今まで健康で生きて来られたことをありがたいと思う。終わりに天空にある皆様に謹んで合掌。

  よみにあり魂鎮まるや 夢の中に角帽姿の涼しきひとみ