拝復 ご照会の件、ちょうど、私が随筆集を刊行したときにその一節として書きましたので、そのコピーをお送りすることにします。お役に立てば幸甚です。

三月三十日                              草々

 昭和十六年 北大予科(農)入学

 昭和二十一年 農学部農芸化学科卒業

 現在 三重大学名誉教授、桜井女子短大教授

 松島欽一著 『随筆集 寒さ・酷寒・極寒』より

   「十八歳の先生―遠友夜学校のこと」

  沢なすこの世の楽しみの

  楽しき極みは何なるぞ

  北斗を支ふる富を得て

黄金を数へん其時か

オー 否 否 否

楽しき極みはなほあらん

賛美歌のメロディを奏でる荘重なオルガンの響きにのせて、校歌の合唱が流れる。

 古びた木造校舎の広間の一室、天井からぶら下がった裸電球の鈍い光の下に立ち並ぶのは、一日の勤めを終えて集まって来た店員さんや工員さん達で、その数は男女取り混ぜて五十名ばかり、年齢もまちまちである。

 すでに暗くなった窓の外には小雪がちらついて、部屋の中の空気は吐く息が白く濁るほど冷たいが、校歌を合唱する生徒達の頬は紅潮し、瞳は生き生きと輝いている。ここ、札幌市の中心からはずれて、粗末な民家が密集する中に混じって建っている遠友夜学校では、これから始まろうとする授業を前にして、朝礼ならぬ夜礼が行われているところである。

 遠友夜学校は、古く明治二十七年、当時、札幌農学校教授であった新渡戸稲造博士(五千円札の人)が、義務教育すら受けることのできなかった貧しい勤労青少年に教育の場を与えるために、私財をなげうって創設した学校である。学校とはいっても文部省令による正規の学校ではなく、授業料は無料で、教師には札幌農学校の教官や学生をもって当て、これまた無償の奉仕に頼っていた。 

 遠友夜学校という名前は論語の中の「朋有リ、遠方ヨリ来ル、マタ楽シカラズヤ」からとられたものである。

 新渡戸博士はその後、京都、東京両帝国大教授、一高校長、東京女子大学長等を歴任した後、国際人として幅広く活躍したことは良く知られているが、その間も遠友夜学校校長として遠くから指導にあたり、学校の運営は博士の志を受け継いだ札幌農学校(後には北大)の有志達によって次々と引き継がれてきた。最初に掲げた校歌の作者で有島武郎もその一人で、博士亡き後はある時期校長を勤めた。開校から閉校に至るまでの半世紀の間に同校の門をくぐった勤労青少年の数は、延べ数千人に及んだという。

 北大予科に入学して一年経った頃、先輩の勧めがあって、私も遠友夜学校の教壇に立つこととなった。十八歳の先生であった。中学校(といっても当時は五年制であった)を終えてからまだ幾ばくも経っていない若者が人に教えるなど、考えてみればおこがましい限りであったが、あえてそれを決意したのは、彼ら勤労青少年に対するある種の義務感のような気持ちからであった。

同じ生まれ年の四人に一人が大学生であるという現在と違って、当時の大多数の国民は、小学校六年の義務教育かせいぜいその後の二年間の高等小学校を終えると、実社会へ出て働くのが常であった。中学校(または女学校)への進学ですら選ばれた少数の者に限られていた。ましてや、高等専門教育や大学教育を受ける者など、希少的で恵まれた境遇であったのである。

 なお、当時はときあたかも戦時下で、国民一人ひとりが戦争の担い手であることが要求され、戦争遂行に直接結びつく生産に従事するものは勤労戦士という名のもとにフルの活動が強いられていた。このような時代背景のもとで、何の資格も得られないのにただ一途に勉学に対する昼間の労働の疲れにも拘らずこの学校に足を運んでくる彼ら勤労青少年に対して、恵まれた立場にある自分がこれまでに習得した知識のおすそ分けをすることは、至極当然の義務のように思えたのであった。私に与えられた授業科目は漢文であった。もともと論語や唐詩などその美しいイントネーションに魅せられて興味を持っていたので、私は精一杯の努力を傾けて“授業”をした。生徒の半数以上は、私より年上の実社会で鍛えられたたくましい勤労戦士であったが、この若輩先生の未熟な授業にも拘らず、その片言隻語も聞き漏らすまいとする真摯な態度にはただ頭の下がる思いであった。「教えるは学ぶが半ば」という言葉の意味を初めて肌で感得したのもこの時であった。

 その後四十年もの長い教師生活を送ってきたが、彼らの食いついてくるような真剣なまなざしは、今なお忘れることが出来ない。授業を終えての帰路、もう運行間隔が長くなってなかなかやってこない市電を待つよりはと、寝静まった街にカラコロと朴歯の下駄の音を響かせて星を仰ぎつつ歩いた時に感じたあの充実感と満足感を、私のその後の人生で果たして幾度経験したであろうか。

 新渡戸博士の志を引き継いだ後輩達によって、半世紀にもわたって守り継がれてきた遠友夜学校は、太平洋戦争の戦況が末期的様相を呈していた昭和十九年、諸般の事情によりついに廃校のやむなきに至り、永年続いた善意の灯も茲に消えたかに見えた。しかしながら、それから約三十年を経た昭和四十八年、遠友夜学校の跡地に、縁りの人たちの手によって遠友市民大学が誕生した。市民の教養向上を目的とし、授業料無料、講師は無料奉仕であることなど、正しく遠友夜学校の現世への復活が成し遂げられたのであった。

 「一粒の麦死なずにありき」であった。

《十七年から閉校まで在職と思われます。》