前略 お手紙拝見しました。遠友塾については以前より承知しておりました。ご努力に敬意を表します。小生と遠友夜学校は、北大予科入学の昭和十八年に友人に誘われて夏頃からお手伝いしましたが、昭和十九年秋閉校のやむなきに至りました。戦争中しかも戦争末期のことなので、学生であった私ども自体が勤労作業に動員されたり、旧制高校の修業年限が六ヶ月から一年短縮された時代(学徒動員)でしたので、正味お手伝いできたのは期間にすればほんの僅かでした。したがって、お答えすることのないことを残念に思います。しかし、生徒の熱心さと本当に理解したときの爽やかな顔が、北大卒業後、教職の道につかせたことは間違いありません。札幌遠友夜学校創立百年事業実行委員会で記念出版『遠友夜学校百年』(仮題)される予定、小生も寄稿しましたのでご承知と思いますがお知らせします。

《事業会で出されましたのは『思い出』のことです。この中に秋田先生の寄稿文があります。次に載せます。題は「教えることの難しさを知る」です。》

 

 昭和十八年、北大予科農類に入学した年の残暑を感じる頃、同級の奥村実義君に誘われたのが遠友夜学校で教えるきっかけでした。私が担当したのは、普通の学校の教室の半分くらいの部屋で、生徒は三、四人、教科はいわゆる算数でした。教えるということはズブの素人なので、どうしたらよいか戸惑いを感じながらの授業でした。一番前の席に座った男性は学習意欲十分、熱心に聞いている割りには反応が鈍く感じましたが、これは難聴の結果であったことがわかりました。   

 教室での一斉授業でも個々の生徒に対応しての理解のさせ方、そして全生徒に共感を呼ぶ授業の重大性を悟りました。教師の立場にあった方々とも当然そのようなことが話し合われ、その結果研修として当時札幌第一中学(現札幌南高)に設置されていた「昭和中学」(道庁勤務の給仕さん方の教育の場であった)へ授業参観にいったことなどいろいろと思い出されます。

 勉強はテストなどで良い点数を取ることであり、教えることはそのための訓練に重点が置かれている感のする現今の教育には疑問を感じます。「なるほど」とよく理解することにより覚え、その知識が色々と問題解決の思考に役立てることのできる人間を育てることこそ教師の役目であると考えております。いろいろの情報が多く乱れ飛ぶ現代です。情報の取捨選択が必要であり、そのためにも正しく思考・応用できることが必要だと思います。

 戦争のためとはいえ、遠友夜学校は昭和十九年秋に廃校となりました。私は勤労動員などで満足に教壇にも立てず、一年にも満たない遠友夜学校とのお付き合いでしたが大学卒業後、教壇に立つ生活に向かわせる動機となったことは確かで、時折懐かしく思い出すこの頃です。

《昭和十八年から閉校の十九年まで在職です》