《松井愈氏は電話でお話が出来ましたが、お会いすることは出来ませんでした。

何か立場が違うのでと遠慮されたと思います。『遠友夜学校』の回顧に「廃校に立ち会った一人として」と題して次の文が載っています。》

 

 私が始めて遠友の門をくぐったのは、昭和十五年九月北大予科に入学した年の初秋であった。その一夜が十七歳の私に、その後の生涯を方向づけさせることになった。そして昭和十八年六月十八日の五十周年記念式と、同十九年三月の廃校に立会い、三月三十一日に最後の一人として遠友寮を立ち退くという関わりをもつ。私の学生時代はむしろ遠友時代と呼ぶにふさわしい。それから三十六年という年月が流れ去った今も、雪解けの頃になると、廃校の春の日々が昨日のことのように胸によみがえるのを止めることができない。

 昭和十九年三月六日、新渡戸先生の筆太の横額“学問より実行”が掲げてある講堂で行われたこの年の卒業式は同時に遠友そのものの閉校式でありながら、あまりにもささやかな淋しいものだった。大戦下に、追い詰められ、破壊された生徒達の“生活”という面からも、学徒出陣に続く勤労動員に次々と狩り立てられる教師、北大生の条件からも、遠友はかなり以前から瀕死の状態に追い込まれていた。新渡戸先生の教えと人間性に育まれ、それをひたむきに守ろうとした遠友が、その存在そのものを抹消し去ろうとする時流との相克の中で、ついにこの夜姿を消したのであった。私は私の傷つき敗れた青春のピリオドとして、今もあの日々を生々しく思い起こす。そして、その思いは昭和二十年の敗戦に前後して死亡した多くの遠友の友人達への思いと、遠友で育まれた思想と生きかたの確かさを改めて確認するという深い感動の中で迎えた敗戦の思いに固く結びあっている。しかし、今私は遠友五十年の最後のページについて述べる紙数を与えられてはいない。本書の全体から、さらには“遠友五十年の足跡”(昭和十八年六月十八日“遠友”三十一号)、“遠友夜学校庶務日誌”など、私達最後の教師達が、五十周年から廃校までの数ヶ月、可能な限りとりまとめ整理した諸資料にあたって頂く他ない。廃校、そして敗戦後、遠友を偲ぶ事業がそれぞれ関係者の方々のご努力で続けられている。そのことに敬意を払いつつも、そこに参加し得ない私の思いは、無遠慮に言わしていただけるなら、「それは“遠友”ではない」というどうしようもない違和感がある。 

 私自身が抱きつづけている遠友、内なる遠友は当然道行きとして、敗戦後、私を核兵器の使用に反対するストックホルムアピール、北大イールズ事件、原爆展の開催サドに始まる平和の運動の道を歩ませた。そしてその道は思いがけずも私に再び新渡戸先生の足跡に踏み入る機会を与えてくれることになった。そのいきさつはこうである。

明治三十年、札幌農学校を出られた新渡戸先生は、終身遠友夜学校校長であり続けられながら,旧制一高校長、東大教授として如何に多くの平和と進歩のための仕事をされ、多くの人物を育てられたか。新渡戸先生を先頭に、大山郁夫、吉野作造、矢内原忠雄、南原繁、島崎藤村、小山内薫、末広巌太郎、穂積重遠氏ら、これらの人脈が日本の戦後史にどれほど大きな役割を果たしたかを、私は戦後平和運動の中で、日本平和委員会会長平野義太郎先生から何度かうかがう機会に恵まれた。

平野先生は自ら新渡戸門下と言われ、日本の思想界に民主主義の新風を吹き入れた。“新渡戸時代”と“火曜会”の集まり、黎明会の創立、そして柳島に設立された東大セッツルメントについて、有島武郎のホイットマン“草の葉”の講読について折に触れて話してくださった。私はこうして戦後の平和運動を通じて新渡戸先生の教えと足跡に再び巡り合う幸福、不遜な言い方を敢えて許していただくなら平野先生によって“友あり遠方より来るまた楽しからずや”と言う遠友の心に再び触れる幸せを噛みしめることになったのである。

 この私自身の経験からも私は昭和十九年春に姿を消した遠友が、五十年の歴史を通じて育てた“子”らの中に今も多彩な形で生き続け発展し続けていることを心から確信し得るのである。

 《昭和十五年から十九年廃校まで在職、電話で言いたかったことはこのことに違いない。》