映画「善き人のためのソナタ」2007年公開 | 日々是湧日 ヒビコレユウジツ

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2021年までは、主に映画(ドキュメンタリー多、ネタバレ多)・書籍からの感想、2023年からは、映画・書籍にとらわれずにやってます。

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 評価の高い映画を選択したら、戦時代の旧・東ドイツの話だった。

話はフィクションだが、当時の秘密警察の動きについては、当時の人を取材して事実に基づいて作られている。

 

【大筋】

ベルリンの壁崩壊前のベルリンでは、秘密警察による反体制派への監視が行われていた。

反体制派と目される劇作家ドライマンは、自宅に盗聴器を仕掛けられる。

 

劇作家ドライマンと女優

 

秘密警察員のビースラーは、ドライマンとそのパートナーの女優の生活を24時間のぞくことになる。

 

秘密警察員のビースラー

ビースラーは彼らの生活を知り、また、そこから流れてくるピアノの曲「善き人のためのソナタ」を聞くことなどによって、徐々に芸術家である彼らに魅力を感じていく。

 

劇作家であるドライマンは、芸術家としてやりたい表現ができない。

少しでも反体制的な劇を作ると劇作家の職を失うことになってしまう。

実際に、ドライマンが尊敬している先輩劇作家が職を失った末に、絶望して自殺した。

ドライマンはついに東ドイツの自殺者の多さを西ドイツにリークすることを決断する。

 

ビースラーの中に、体制を守ることと芸術を表現することの葛藤が起こる。

市民を監視させる高官や監視する秘密警察が人権を無視して非道な時代。

高官は権力を使って、女優を強姦したりもする。

ビースラーも体制を裏切ると恐ろしい粛清が待っている。

葛藤の末、ヒースラーは、ドライマンの反体制の動きを隠すことを決断する。

物語の結末に向かう。

 

【感じたこと】

まずはベタな感想として、この時代の共産主義陣のすさまじさ。
表現の自由がない生活が、いかに息が詰まるか感じられる。
食べ物に困らず、美しい彼女がいて、ピアノが弾けて、友達を読んだパーティーを派手派手しく開けたとしてもだ。

こんな体制の国は二度と存在して欲しくないと、心に刻むだけだ。

 

次に、非道な社会に抵抗しようとする力のすごさ、勇気が感じられる。
平和な社会、非道でない社会では力や勇気や本気がわからない。

平和な社会は、勇気や本気が失われる社会ともいえる。
非道な社会こそ、不幸に見える社会こそが、反対ベクトルが明確になる、物語の場。

その場がひどければひどいほど心を揺られる作品ができる。

最後に、人生の選択について。

ドライマンのパートナーの女優は、ドライマンの反体制の動きの証拠を話すように尋問を受けるシーンがある。

証拠を出せば、愛するドライマンを裏切ることになる。

証拠を出さなければ、自分のやりたい女優の道が絶たれる。
いずれの選択でも本人に後悔が残る。

後悔を感じないためには、ドライでないとならない。

「女優でなくても問題ないわ」

「男は他に星の数ほどいるの」

など。

なかなかできるものではない。

自然な人間を捻じ曲げないとできない。

薄情でないとならない。

薄情になると薄情である自分をまた自分で攻める。

 

人生の様々な選択。

一切迷いのない、後悔のない選択はない。

あれもこれも欲しいし、あれもこれも失いたくないから、自分で苦痛を感じる。

欲深いと苦しむようになっている。

後悔する、ということは自分がもっとうまい選択ができる人間だ、という勘違いからくる場合もある。

後悔のない完全な選択ができるほど自分が優秀でも完全でもない。

自分に対する期待値を上げると、自分ができる人だと思うと、人生は苦しい。

後悔がない選択をしたからといって最高の選択だったかもわからない。

いい選択も悪い選択もない。

ただ選択があるだけだ。

 

人生は、その欲を満たし快感を得て、同時に苦痛感じる、両方をちゃんと味わうようにできている。

苦痛がなく100%うまくいく人生を求めるがそうはいかない。

非常に面白い。

快感と苦痛を半々味わいながら生きる。

 

その苦痛一つ一つがあることで悩むことは無用だ。

なくすことができないものを悩むのはバカバカしい。

苦痛を忘れる。

苦痛があること翌日の筋肉痛のように幸福に感じる。

当たり前に日常にある苦痛を「おいしさ」にして生きる。

これ最高。

 

これはこの映画のことというより一般的な話。

たまたまの自分のタイミングがあったのだろう。

この映画でこのことが一番印象付けられ、自分に刻まれた。

 

同じ東ドイツの映画はこちら。

「僕たちは希望という名の列車に乗った」

 

 

もある。