【雑記帳】奈良から大阪へ 阪神・淡路大震災 | 奈良ふしぎ歴史徹底攻略! 学校・教科書では教えてくれない奈良を親子でも100倍楽しめる観光ガイドブックブログ

【雑記帳】奈良から大阪へ 阪神・淡路大震災

1995年1月17日。

早朝。

まだ暗いくらい時間。

いつものように会社の先輩の車にのせてもらい、大阪は西区の事務所へと向かいます。

未だになれない早朝の仕事。

特にその日は、全身がだるく、朝の冷え込みがひどくキツく感じていました。

風邪をひいていたことに気付いたのは、ずっと後のことでした。

先輩はケチで、車の暖房をつけない人でした。
底冷えする助手席で震えていました。

国道163号線を、生駒から大阪へ下っていきます。
四条畷市にさしかかったとき、突然、車が大きく振れました。

・・・ええ!?

車を急停止します。

普段、この時間、猛スピードで飛ばす車が多いのです。
目の前の信号が、赤信号にかわっていたので、幸い追突される心配はなかったのですね。

・・・パンクか?

何事かと、二人して車を飛び出します。
タイヤを点検しますが異常ありません。

ふと、前後の車が、てんででたらめに車をとめ、運転手たちがいぶかしげに辺りを見回していました。

「?」

気を取り直して車にのりこみ、会社へ急ぎました。

カーラジオから流れるニュースは、てんで何をいっているのかわけがわかりません。
時間が経つにつれて、地震が起こったことが理解できました。

いつも先輩の車では、音楽ではなく、
MBSラジオの「おはようございます川村龍一」がかけられていました。

このとき、ラジオパーソナリティの川村龍一さんが、スタジオに到着しないと騒いでいました。

熱にうなされながら、いつもと違う雰囲気に気分が重く落ち込んでいきます。

門真市から守口市へさしかかったときに、地面が割れて大量の水が噴き出していました。

どうやら水道管が破裂したようです。

町中、いたるところでサイレンの音が鳴り響きます。

先ほどの車のスリップの原因と、ラジオでいっていた地震の規模が、おそろしく大きいことがようやく理解できました。

これが私の「阪神淡路大震災」の体験でした。


1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒。

マグニチュード7.5の地震が、阪神、淡路を襲ったのでした。

死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名


カーラジオから、川村さんの電話の声が届けられる様子が流れてきます。

このとき川村さんは、出勤途中に地震と遭遇。
情報が混乱を極めていた瞬間に、被災地にて被災状況を電話でレポートをしていたのでした。
彼の口からは、壮絶な被災状況が伝えられます。

事務所に着いて、グッタリしながらも作業をこなします。
他の社員は、いくら待っても来る様子がありません。

一仕事終え、休憩室のテレビをみて愕然としました。
そこには、倒壊した高速道路の光景がありました。

社員の女の子一人、が三宮に住んでいたので、心配になりました。

先輩と二人してなんとか連絡をとろうとしますが、まったく駄目でした。

その人は、助かって命からがら、大阪へ逃げ延びてきました。

だけど、住むところを失い、すぐには行くあてなく、
しばらく事務所に寝泊まりすることになったのでした。

社長が、元気づけようと、ふざけて、ワッと脅かしたところ、

ギョッとなり、へなへなと泣き崩れてしまいました。

心胆を寒からしめる恐怖が、彼女に巣くっていました。

この震災では、建築や、住宅事情、緊急災害時の対応・・・様々な問題をこのとき、世間へ投げかけたのでした。

あれから十五年。

この震災は過去のものとなってしまいました。

一見、町は復興されたかのように思えます。

今でも、心の奥に深い傷をおったまま日々を過ごす人が、まだまだ多くいらっしゃると聞きました。

しかし、理不尽なほどに圧倒的な大災害の力にのみこまれ、命を落とした人のこと、

瞬間、夢や、笑顔をうしなった人たちのことを思えば、

そして、私自身にもいえることなのですが、

今、生きていることがどれだけ、有難いことか。



ラジオの川村さんの声が、今でも脳裏によぎります。

高揚していましたが、つとめておさえ、震災の状況を伝えていました。

このとき、彼は、自分のできること、
この瞬間、生きて残ったものが、できうることを、
果たせることができる責務を、精一杯にやってのけていたのでしょう。

後で知ったのですが、
彼の活動により、MBSをはじめとするマスメディアに、この地震の重大さを認識させたのでした。


最後に、阪神淡路大震災で亡くなった全ての方にご冥福をお祈りいたします。