夏の暑さがまだまだ残っていますが、僕はもうすぐ25歳になろうとしています。秋が近づいてきましたね。皆様どうお過ごしでしょうか。クレープです。



タイトルの通り、この度ドナーが決定しました。



なんと、嫁姉とHLA型が半分合致しましてハプロ移植をすることが決まりました。



嫁と、嫁兄嫁姉は父親が違うので4分の1?の確率を引き当てることが出来たのです。



計算式はいまいち分かりませんが、とにかくドナーが決定して一安心しています。



再発した白血病細胞も1%未満まで寛解したので、後はビーリンサイトを1回ないし2回行い移植に繋げていく予定です。



とにかく今は何事もなくスムーズに移植まで行えることが最優先です。



前回の記事を載せた後、大変多くの方にブログを見てもらったみたいでプチバズりをみせていました。



みなさまが気にかけてくださって、コメントやいいねやブログにアクセスしてもらえるだけで本当励みになります。



1人でも多くの人が嫁のがんばりを知っているということ。そのことを、とても嬉しく思います。




話は変わりますが、冒頭にも書いたようにもうすぐ25歳になります。



嫁は同級生なので僕が25歳になった1ヶ月後には25歳になります。



16歳から9年間、別れたり付き合ったりを繰り返してきましたが誕生日だけはなぜか毎年一緒にいました。



今年はリモート誕生日会になりそうです。



誕生日といえば、高校生の頃はバイトもしていませんでしたので親に金をせびって嫁に誕生日プレゼントを買っていました。



一緒に天神(福岡の人がいっぱいいるとこ)に行って、少し背伸びをしたお店に入り、お揃いのネックレスを買ったことを覚えています。すぐ失くしましたが。




専門学校に入ってからは、嫁は某UNIQLOでバイトをバリバリ頑張っていましたが、僕は本当に社会に馴染めない人だったのでバイトが出来ませんでした。



学校の近くの客が来ない居酒屋で1年弱バイトをしました。が、お小遣い程度しか稼げませんでした。



その頃は、誕生日プレゼントとかは渡していませんでした。親からもらったお金でプレゼントを買うのはなんか違うかなと思ったので。



嫁は物欲がないし、趣味もないので稼いだお金を僕と遊ぶお金にしてくれていました。



見返りを求めていない投資を繰り返す嫁を不思議に思ったこともあります。(感謝しろよ)



初めて2人で旅行に行った時は、旅費の9割を嫁が出してくれました。



優しいとかじゃないんですよ。昔から。嫁はずっと結婚を見据えていたので、家族のためにお金を使うような感覚だっただけなのです。



社会人になったら、うんと高いものを買ってやろうと思っていましたが、なんやかんや借金だらけで新生活がスタートしたのでお金がなく、そんな余裕がありませんでした。



社会人1年目が終わる頃には少し金銭面が落ち着いたので、2年目になった時に嫁から誕生日プレゼントをもらいました。



もらわないと思っていたので、とても嬉しくて、その年はひさしぶりに誕生日プレゼントを送りました。



なんてことない安い財布とシャツ。嫁のラッキーカラーの緑色。



嫁も同じくお返しはいらないと言っていたので、とっても喜んでくれました。SNSにも載せてくれていたので相当嬉しかったんだと思います。普段あまりしないので。



長くなりましたが、記念日やらなんやら気にしない性分であっても、誕生日だけは大事にしていきたいなと思った話しでした。



話を戻して、とにかく無事ドナーが決まりましたので、後は順調に治療が進んでいく報告を皆様に出来ることを心から願うのみです。



皆様も手洗いうがいアルコール消毒をしっかりと行い、コロナウイルス蔓延防止に努めつつ、病気やら子供やら上司やらと戦っていきましょう。以上です。




上矢印下矢印娘が可愛すぎてどうしたらいいか分かりません。誰か助けてください。













雨が続きますね。

 

皆様の地域では、土砂災害等の影響はありませんでしょうか。

 

こちらは、見事なまでのフラグ回収を見せております。

 

嫁の白血病細胞が増えており、再発が確認されました。

 

一時退院を終え、やっと最後の第6クール突入!!って時に、あいつはまたやってきました。

 

病院に家族全員呼び出され、医者からの病状説明。

 

今後は移植の方向で治療を進めていくそう。

 

また、振り出しに。

 

ここからまた半年ぐらいかけて治療。

 

さすがに嫁も応えたみたいで、弱気な発言が増える。

 

当事者以外は想像もつかない絶望感に襲われたことでしょう。

 

ここまで半年間我慢して我慢して(我慢できずにこっそり面会していたが)、もうほんとに。

 

もう娘はハイハイが出来そうだぞ。

 

なんかもう嫌になりますね。全部。

 

なんでこう普通の生活が送れないのでしょうか。

 

世の中にはもっと辛い闘病生活を送ってる人もいるんだぞ!って?

 

知るかよハゲタコ。人はみんな自分が一番でしょうよ。

 

もちろん、同じような境遇の人は他にもいるだろうし、みんな幸せになるならそれでいいけど。

 

とまあ、愚痴を言ってもしょうがないのでこの辺で。

 

僕は多分10月から職場復帰の予定です。

 

再発したことを上司に告げ可能な限り休みを取りたかったが、職場の都合上これ以上休むのもかなり迷惑をかけるので後はもう上司に委ねました。

 

ここまで休ませてもらえただけでもかなり感謝しています。男が育休は前代未聞だったことでしょう。

 

全然きつくないですよ。娘はよく寝るし、時短で働く希望も出したし。家事は義母に任せたらいいし(小声)。

 

白血病の治療に比べたらほんとに大したことないことです。

 

一日実家に娘を預け、日中顔を見ていないだけでも迎えに行くときは娘に会いたいっていう気持ちが溢れます。

 

こんな気持ちを1年以上も持ち続けるなんて、僕だったらとっくに精神が崩壊しています。

 

でも嫁は違います。

 

それはそれは強い人です。昔はLINEの返信が遅いだけでiPhoneをぶち壊してましたから。

 

殴りあったこともありますし、嫁が優位に立つような奇妙なルールを作られ何回も土下座させられました。(よく考えると全部僕が悪いんですけどね!)

 

あんなに負けん気が強くて、芯の図太い(足も太い)女性は見たことがありません。

 

あんまり前向きなことは、またフラグみたいになるので言いません。

 

でも、嫁が無事に帰ってくることを家族みんなで待ち続けます。そうするしかないので。

 

移植が終わって退院する時には、娘と歩いてお迎えに上がりたいですね。


おっと、愛娘が泣き出したのでここまで。

 

 終わり



 

 上矢印

 一時退院中に家族3人で黒川温泉に行きました。まじ最高でした。写真だけでも楽しそうなものを選びましたイルカ

 




ブログ更新をさぼっていました。

 

 

なぜ僕がこのブログを始めたかというと、調子の悪い嫁を少しでも楽しませるようにと、今までの二人の人生を振り返っていくというブログを書いていました。

 

 

おかげさまで、まあまあ治療が順調に進んでおり現在第5クールの終盤。

 

これが終わると残り1クールとなりました。

 

 

順調とは言いましたが、熱が出たり、食欲がなくなったり、大部屋で悪臭に悩まされたり、M字ハゲになったりと嫁は大変そうでした。

 

 

それでも以前よりかは、ただ治療をこなしていくような感じになってきたのでSNSの力を借りずとも嫁を楽しませることができるようになり、ブログの更新が止まっていました。

 

 

再発の恐怖とは今後も末永く付き合っていくことにはなりますが、できれば何もないことを願っています。

 

 

嫁は子供がもう一人欲しいという願望も持っていますので、今後の不妊治療等も夫婦で前向きに頑張っていこうかなと思っています。

 

 

先日、娘が生後6ヶ月を迎えました。

 

 

枯れ果てるまで泣いた白血病の診断、そして診断翌日の緊急出産からもう半年。

 

 

早かったです。僕は。

 

 

嫁は長く感じたでしょう。ずっと一人で戦っていますから。

 

 

コロナの影響で検診も一緒に行ったことがなかったため、出産前日に初めてエコー写真を生で見させてもらい、その1週間後には人生で初めて赤ちゃんと触れ合いました。

 

 

近しい友達や親戚が、出産した経験もないため赤ちゃんを抱っこしたのが本当に初めてでした。

 

 

僕は正直あまり育児をする気がなかったので、今まで嫁の言うことを半分聞き流し、お産に向けて買い物をする時も半分寝ながら嫁の後ろをただついて回っていただけでした。

 

 

それが急に赤ちゃんを渡され、育児してくださいなんて、思ってもみない状況に。

 

 

まあやるしかないので、ミルクをあげ、おむつを替え、お風呂に入れ。

 

 

最初の二か月はあんまり寝られずに、夜な夜な白血病の事を調べては娘が泣き、娘が寝たらまた白血病の事を調べて、みたいな生活を送っていました。

 

 

ネットには大した情報はないなと思いいつしか検索することはやめましたが。

 

 

そんなこんなで最近では離乳食も始まり、また少し忙しくなってきました。

 

 

毎日仕事に行くよりもよっぽど楽なので一生育児休暇でもいいです。嘘です。

 

 

もし白血病と診断された、あるいは家族が白血病になったという方で、このブログを読んでいる人がいるのであれば、嫁がこれからどんどん元気になっていくところを報告して、皆様に少しでも勇気と希望をおすそわけできればいいなと思っています。

 

 

そのために自分ができることは、嫁が帰ってくるのを娘と待っているだけですが。

 

 

今考えると、もう少し妊娠するのが遅かったら娘が元気に生まれてこなかったかもしれないし、嫁の状態が悪化していたかもしれない。あるいは、一生子供を授からなかったかもしれません。

 

 

生まれてくるまでに親孝行をする子供はあまりいないんじゃないかなと思います。なので、娘は元気に育ってほしいです。語彙力が7歳です。

 

 

福岡はすでに猛暑が続いており、外出するのが億劫ですが、僕は毎日嫁に夕食を届けなければいけない使命がありますので、明日も頑張って配達します。パーパーイーツです。

 

 

長くなりましたが、こんなにつまらない文章を読んでくださってありがとうございました。

 

 

自分で書いてて、客観的に面白いか面白くないのか分からないので、是非なんでもいいのでコメント等お待ちしております。

 

 

ではでは、ごきげんよう。



上矢印

上の写真は初めて予防接種に連れて行けた嫁と、抵抗するのを諦めた娘。







 

 



3年生の10月頃に実習が終わると、国家試験に向けての勉強が始まる。

 

それと並行して学生たちは就職活動を行うのだ。

 

中には、実習と並行して就職先を決定する者もいる。もちろん、僕にはそんな余裕もないので、実習が終わってからゆっくりと職場を探していた。

 

 

看護師の求人は、僕たち理学療法士よりも少し早く掲示されるため、夏ごろに嫁は進路を決めていた。九州でも有数の病床数を誇る超規模病院だ。

 

 

これもまた、嫁は希望していた国立病院に落ちていたわけだが、今回は後に受けた病院で嫁姉が働いていることもあり、それほど落ち込んではいなかった。

 

 

僕は今までみんなに流されながらなんとなく生きてきた。

友達がやってるから、先輩がいるから、嫁が言うから、とか。

 

 

就職先は誰も決めてくれない。一応やる気のない僕を見かねて、担任の先生が候補をあげてきたが、自宅から車で1時間以上かかる場所だったので速攻お断りした。

 

 

卒業したら嫁と2人で暮らす予定だったので、遠くに行くつもりはない。

 

 

父は母が亡くなってから、僕に常々こう言っていた。

 

 

「大きい男になれ。小さくまとまんなよ。」

 

 

どういう意味かはなんとなくで理解していた。

 

 

僕が地元の病院に就職しようとしていることが、父は少し不満げであった。色々な場所で色々な経験をしたほうが良いということであろう。

 

 

嫁が地元に就職を決めた以上、僕は地元から離れた場所で働くという選択肢はない。

 

 

これは、みなさんも各々の考えがあると思う。

 

 

女に合わせて地元に残るダサい男だと思う人もいると思うし、これに対して小さくまとまっていると捉えることもできるだろう。

 

 

「大きい男になれ。」

 

というのは、都会に飛び出て、キャリアを重ねて、上位の役職に就くことだろうか?

 

 

お金を稼いで、遊びまくって、仕事も頑張って、有名になって、たくさんの人に夢とか希望とかを与えられる人になることだろうか?

 

 

僕は違うと思った。

 

 

僕にとって「大きい男」は、世界で一番大切な人を、自分の一生をかけて笑顔にすることができる。そんな男だと思っている。

 

 

母が身命を賭して僕に教えてくれたことだ。

 

 

あの頃、母が世界で一番大切だったように、今は嫁が世界で一番大切な人だ。

 

 

だから、嫁と一緒に暮らして、お金を稼いで、一緒にうまい飯食って、嫁を一生笑かしていくことが「小さくまとまっている」なんて思わなかった。

 

 

だから、どうしても地元の病院に就職しないといけなかったのだ。

 

 

とは言っても、理学療法士は年々就職難が悪化している。

 

 

養成校は増え続ける一方で、定年退職の年齢があがっていたり、募集の数は変わらなかったりと今後は増々就職が困難になることが予想される。

 

 

僕の地元福岡では、すでに理学療法士はあぶれている。

 

 

クラスの大半が、九州県内の自分の地元に帰って就職したり、関東方面の人口が多い土地で就職先を探していた。現に福岡に残ったのは数名だけだった。

 

 

そんな時、専門学校が主体の就職説明会があった。

 

 

自分の病院に就職してほしいというアピールをしに、病院側から学生に向けてお話をする会だ。全国各地から来ていたが、県外の田舎の病院で人手が足りていないという病院が多かった。

 

 

学生たちは、一人3施設ほど説明を受けて回る。自分が事前に希望していた施設もあれば、教員に勝手に振り分けられた施設もあった。

 

 

僕は事前に1施設だけ、地元に近い病院の説明を希望していた。その病院と、勝手に振り分けられた2つの病院の説明を受けることになった。

 

 

1番目は千葉の病院。千葉の田舎のほうにあり、給料は多少高めだった。ぜひうちの病院にという押し付けが凄かった。大きな病院なのに人手が足りないところからすると、よっぽどの田舎か、ブラック企業かだろう。知らんけど。

 

 

2番目は山口県の田舎の病院。関東圏の病院よりも給料が高い。ただ、本当にド田舎にある病院だった。遊ぶ場所もない、友達もいない、嫁もいない。そんな所でお金を稼いで何になるのだろう。と、素で思った。ここもアピールが凄かったことを覚えている。

 

 

最後が、自分の希望した地元近くの病院。リハビリテーション科の主任と言った背の高い男性が一人で来ており、見開き1枚のパンフレットだけくれた。今までの病院はどれも、スクリーンを使ってスライドを流しながら自分の病院の良いところをつらつらと語っていたが、この男性は違った。

 

 

「他の病院も見た?うちに来たいって考えてるんだったらちゃんと、ほかの病院も見学するんだよ。よく考えてね。」

 

 

正直、拍子抜けだった。

 

 

ここにきている人たちの多くは、自分の病院に来てほしくて学生たちにアピールしている。

 

 

是非、うちの病院に!うちの病院に就職すれば、こんなに良いことがあるよ!といった決まり文句が様々な場所で重なり合っているこの場所で、この人は何を言っているのだと思った。

 

 

まあよく考えたら、適当に考えて就職するような人はいらないよな。と今になって思う。当たり前のことを言っているだけだった。

 

 

その病院は、春夏秋冬で1シーズンごとにイベント事を催していた。冬の新春お楽しみ会から始まり、春はお花見、夏は夏祭り、秋は遠足。

なんとなく、良いなと思った。

 

 

「患者さんは病院が嫌いになっていくねん。ずっと入院してるから。だから、リハビリは楽しいと思ってもらわなあかん。リハビリの時間だけでも笑顔になってもらう。患者さんを笑かすことが1番大事やねん。」

 

 

背の高い男が僕に向かってそう言っていた。妙に親近感のある関西弁だった。

 

 

今までにない考え方だった。

 

 

あぁ、こんな人が上司だったら良いよな。面白い人だな。

 

 

僕は、この病院を受けることに決めた。

 

 

なんせ、嫁の就職先と同グループの病院だったので、ほぼほぼ受けようと思っていたのだ。ストーカー気質。

 

 

試験は面接だけだと書いてあったので、2回ほど面接の練習をした。

 

 

国家試験までの間、みんなは学校に行き少人数のグループで勉強をしていたが、僕はみんなで勉強する意味が分からなかったので学校にあまり行かなかった。

 

 

おかげさまで、ろくに勉強もせず、食っちゃ寝食っちゃ寝していたので、就職試験の面接で証明写真との顔が違いすぎて主任の心を掴んだ。見事、合格。

 

 

国家試験は言わずもがな、合格率90%を誇る学校だったので楽勝だった。仲の良いクラスメイトが落ちた事が分かった時は、人生で一番気を遣ったと思う。楽勝だったとはとても言えなかった。

 

 

無事に、試験が終わり晴れて専門学校を卒業することができた。思い返すと楽しい3年間だった。

 

 

卒業式の1日前には、1LDKの部屋を借りていた。これから嫁と暮らしていく家。

 

 

うきうき、わくわく、るんるんで楽しい卒業式や謝恩会も終わり、さあ新生活がスタートするぞ!という時に限って何かが起こる。

 

 

 

 

僕たちは働く前から借金をする羽目になる。債務者人生の始まりだった。幸先悪っ。

 

 

 






上矢印

写真は僕の学校の卒業式に来た、嫁と甥っ子。とっくに甥っ子には身長抜かされてます。

 

 

 






嫁には趣味がない。

 

 

勉強は得意だし、まあ友達もいる。今までのアルバイトも、看護師の仕事も上手にこなしてきた。

 

 

職場の先輩や同僚にだって可愛がられており、たまに飲みに連れ出されたり誕生日や結婚をお祝いしてもらったりしている。

 

 

完璧主義者で、気が強く、負けず嫌いな僕の好きな人には趣味がない。

 

 

そんな所が好きだったりする。

 

 

最近の入院生活では、趣味がないことが裏目に出ているが、暇を持て余しているためゲームをしたり動画編集をしたりと趣味までとはいかない即興遊びで時間をつぶしている。

 

 

うちの嫁はファッションにもあまり興味がない。清潔感がある服ならば何でもよく、特にこだわりはない(年相応のシンプルな格好をする嫁が僕は好きだが)。化粧は専門学校に入った途端しなくなった(中学高校とだいぶケバかったのに)。唯一好きなことは食べることくらい。

 

 

これといった趣味が見当たらないから、良い。

 

 

何が良いとは説明し難い。

 

 

単に個人的にこだわりが強い人があまり好きではないという、間違った方向に向いた好みのせいだろう。

 

 

外では完璧に授業や仕事をこなし、友達や後輩に勉強や業務を指導して少なからず誰かに尊敬の念を抱かれた人が、家に帰った途端タンクトップにパンツ1丁でアイスを貪りながら海外アニメを笑いながら見ている。休日に必ずしている趣味もなく、ひたすらアニメやドラマを見て僕の帰りを待っているだけ。

 

 

家では何もしないところが最高に面白いギャップで良い。

こんなに面白い状況を楽しめるのは、ずっと隣で嫁の生い立ちを見てきた僕だけだろう。

 

 

これで、家に帰って完璧に家事をこなし、化粧品やら洋服を買い漁り、趣味がボルタリングとランニングだったら多分結婚する気にはなれなかった。と思う。

 

 

あと、僕の趣味に乗っかってくることがない。

 

 

例えば、彼氏がバイクが好きだと言う彼女がバイクに興味を持ち出したり、彼女がアイドルが好きだと言う彼氏がそのアイドルを好きになったりとよくある話だと思う。

 

 

それがない。まあないことないけど興味を持ってくれることは少ない。

 

 

にわかに信じがたいと思うが、僕の趣味は読書と映画鑑賞。あと音楽。ギター。そのあたり。

どれも日本の物が好きで、邦画、邦楽が好き。好きな作家は石田衣良、吉田修一、角田光代などなどメジャーな人ばっかりだけど。日本語のあの感じ、読み手の受け取り方によって持つ印象が全く違うような言い回しだったり間の取り方だったり、あの何とも言えない感じが好きなのだ。

 

 

ちなみに友達や職場の人に読書が趣味だと言って、信じてもらえたことはない。見た目が見た目なので完全にアウトドア派だと思われる。めちゃくちゃインドアなのに。

 

 

嫁は洋画や海外アニメが好き。小説は数えられるくらいしか読んでいるところを見たことがない。音楽の趣味は似ているけど、洋楽も好き。韓国も好き。楽器は引けない。こんな感じ。

 

 

ここで僕の趣味を1個訂正。読書や映画鑑賞をして、その話を嫁にするのが趣味なのかもしれない。

 

 

毎回本や映画を見ると誰かと共有したくなり、当然僕の周りに本を読む男やマイナーな邦画を見あさっている人などはおらず、嫁に聞いてもらうことになる。

 

 

嫁は話を聞いてはくれる。嫌な顔はしないし、嫌な気もしないと言っていたのは本音だろう。

 

 

だがしかし、僕のおすすめした本を読んでくれたことは数回だけ。僕の好きな邦画は絶対見ない。興味がない。無理やり見せたことは何度かある。いい感想はたまにしか返ってこない。

  


その、僕の趣味嗜好ではたまにしか触れることができない琴線に奇跡的に触れることができた時に、とてつもない満足感を味わうことができるのだ。

 

 

1度、僕が好きな作家の小説を読んでくれたことがあり、

 

 

「あの本良いね。バッドエンドなのがいい。」

 

 

と同じ感想を言った時は、ここぞとばかりに他の作品も大量におすすめした。いつになったら読んでくれますか?

 

 

とまあ趣味がない嫁に、これからも好きなものの話を一方的に話し続けることになるだろう。

 

 

何にもこだわらず無趣味な嫁でいてほしい。ずっとそばにいて、僕の話を適当にあしらってくれたら最高だ。夫婦ってそんなもんでしょ?

 

 

 

 





上矢印

写真はボラギノールのCMに出てきそうな嫁。




専門学校での思い出はたくさんあるが、鮮明に覚えいるのはこれしかない。



「長期実習①」




理学療法士になるためには、3週間の実習を1回と、10週間の長期実習を2回クリアしないといけない。


この長期実習の1回目が、今の自分を支えていると言っても過言ではないぐらい思い出深い。


色んな意味で。




ちなみに、看護学生は2〜3週間の実習を何回も行き、全てに合格をしないといけない。


一般的に看護学生の実習は、


めっちゃしんどい・全然眠れない・看護師怖い


というイメージがあると思うが僕はそんなイメージが全くない。



なぜなら、嫁が苦労している場面を一度も見なかったからだ。



まあ、僕が人の話を聞いていなかったのもあるが、うちの嫁は実際に実習の成績が校内で1位だったし、校内でのテストの成績も1位。極め付けに学年で1人しか貰えない県知事賞をもらい、卒業式には答辞を読んでいた。

この人は、首席で入学し首席で卒業した。



高校1年生から付き合い始め、自己形成に一番影響する思春期という多感な時期を共に過ごしたので性格や好みは自ずと近づいていった。が、嫁だけ勉強ができたのだ。


要領が良いというかなんというか。努力を惜しまないタイプ。負けず嫌いだし。頑固。めちゃくちゃ。



話を戻そう。



僕は要領が悪いし、勉強も中の中。できない訳じゃないけど、努力する気がない。って感じ。

実習なんか適当にやり過ごせばいいと思っていた。



そんなに甘い世界ではないし、自分1人じゃ何もできないことを痛感した。わりと早めに。



それぞれ学生達は北は千葉から南は沖縄宮古島まで各病院に配置される。その中で、病院に近い宿を探して10週間お世話になるのだ。実家から通える人は半数以下だろう。



例に沿って僕も福岡の田舎の病院だったため、1番近いレオパレスを借りたが、田舎すぎてレオパレスから病院まで電車で1時間、その後駅から自転車で30分と訳の分からない場所に宿を取るしかなかった。



朝は6時半に家を出て、夜帰ってくるのは22時。そこから、飯を食って風呂に入って課題をしてたら夜が明ける。そんな生活を約2ヶ月半も送らなければならない。



その中で洗濯やら掃除やらをする暇なんかあるわけがなく、部屋の中は悲惨な状況だった。


休みは土曜日の午後と日曜日だけ。


最初の方は土曜日の午後から嫁の実家に帰り、日曜日の深夜にレオパレスに戻っていたが、段々と余裕がなくなり、嫁がレオパレスまで来てくれるようになっていた。



床に転がる無数のペットボトル。溢れかえる弁当のゴミ達。そして、カーペットにこぼれたタバコの灰。おまけに腐ったまま放置されたミカン。



嫁は文句ひとつ言わず、家の掃除をしてカレーを作り笑いながら一緒に食べてくれた。家事をしてくれることが彼氏を支えることではないと思うが、本当に有り難かった。


来れる時は絶対に僕の所まで来てくれて、会えない日は眠りにつくまで必ず電話を繋げてくれる。

珍しく精神的に追い込まれている彼氏を精一杯支えようと頑張ってくれたのだ。



嫁と結婚しようと決めたきっかけは、この思い出が半分ぐらいを占めている。



今考えると自分の課題もあったであろう嫁が、僕に気を遣って自分の大変さを押し付けなかったから、看護学生の実習に対してのイメージがみんなと相違することになったのだと思う。 



嫁の支えもあり、なんとか毎日病院に通うことができた僕はとても良いとは言えない成績だったが実習を終えることができた。


僕を担当してくれた理学療法士の先生は、元暴走族だったこともあり、怖くて実習に来れなくなった学生も多いらしい。実際に僕の次に行った学生は2週間で病院に来なくなった。



夜な夜な書いた課題を投げつけられたり、立ってるだけでクロックスが飛んできたり、時間を間違えただけで殺すぞ!って言われたり確かに態度は怖かった。


だけど、遅くまで一緒に課題のことについて考えてくれたり、ご飯に連れて行ってくれたり、自転車が盗まれた時は自分の自転車を貸してくれたり心は優しい先生だったので、出会えてよかったなと思う。(本心)



実習中に先生が10年間担当していた患者さんが持病で亡くなられて、先生がお通夜に参列していた時があった。


多分、リハビリの先生がそんなことしない。あんまりいないと思う。


それを見た時に、理学療法士っていうのは患者さんの一生に関わる責任の重い仕事だなと綺麗事なしに思った。




2回目の長期実習は嫁の実家から通えたこともあり、そんなに苦労することなくクリア出来た。もちろん、クロックスが飛んでくることもなければ、罵声を浴びることもなかったから。



そんなこんなで、嫁より先に無事に実習が終わり国家試験に向けての勉強がスタートする。



国試まで残り5ヶ月。長くなったから次回。





上矢印

写真は実習中のレオパレスにて、悪魔的な速さでカレーにソースをかける嫁である。



             

 

前にも紹介したがもう一度嫁の家族構成を。

 

嫁の実家には、嫁母・嫁姉と嫁甥がいる。嫁父は離婚し絶縁している。嫁は実の父親を相当嫌っていて、あまり会話の話題になることはなかった。

嫁母はバツ2で嫁兄と嫁姉の父親と、嫁の父親は違う。

嫁姉は妊娠中に相手が別の人と子供を作ってそっちと結婚されたりなんたりでシングルマザーに。と、まあつくづく男運のない家系である。

 

 

初めて嫁の家に行った時は嫁甥が小学校一年生の時だった。嫁姉は看護師をしており、嫁母も仕事があるため一人で留守番をしないといけないことが多いので、嫁が代わりに子守り的なことをしないといけないこともしばしば。女3人の中で育った嫁甥はどちらかと言えば内弁慶なお調子者という感じ。(今は中学3年生になり立派なインドア内弁慶野郎になっている)

 

そんな中で家にやってきた僕は、嫁甥にとってお兄ちゃん的な存在になってしまった。必ずまとわりついてきて一緒に飯食ったりテレビを見たりゲームをしたりと汗くさい疑似子育てを家の中で手軽に味わうことができた。

 

ちなみに嫁甥は嫁姉(実の母親)のことも、嫁のことも下の名前で呼んでおり、僕のことも容赦なく下の名前で呼び捨てだった。最初から。別にいいけど。

 

僕たち夫婦は今まで2回別れを経験しているが、最初に別れたのが高校2年生の冬ごろ。これは後から聞いた話だが、当時嫁は相当落ち込んでいたらしく、ショックで体重も落ちたりしていたらしい。嫁姉に僕の悪口を愚痴ったり、嫁母にもあんな男忘れなさいだとかなんとか言われたりしていたらしいが、嫁甥だけは別れた気配を感じ取れるはずもなく無邪気に、最近あいつこないよな~的なことを呟いていたらしい。何日たっても言い続けていたため嫁が、あいつとはもう別れたから2度と家に来ることはない!ときっぱり言ったらしく、その日の夜は号泣しながら嫁にしがみついて寝ていたらしい。(翌日からはケロっしていたらしいが)

 

嫁甥の可愛いエピソードはこれが一番好き。

 

 

嫁の実家に居候することになる前にも、高校を卒業してからは嫁の実家に泊まってそのまま学校に行ったりしていた。年頃の娘の部屋に男が泊まっている状況を適当に受け流しているところがこの家族の不思議なところである。(お前が言うな)

今考えると、よく食べる住人が一人増えても一切の生活費を請求したりすることがないところから、さすが看護師と言わざるを得ない。

 

 

居候するとはっきり言ったわけではないが、嫁の帰らなくていいじゃん発言から、ぬるっと自分の服やら教科書やらを運んでいき嫁の部屋で生活するようになっていった。部屋は狭いし、もちろん布団のサイズはシングルだったので常に引っ付いている様な生活だった。でも何の不満もない。これから、この4.5畳の秘密基地には僕たちの苦くて酸っぱい青春が詰まっていく。思い出したくないような気もする。

 

 

数えられないくらい喧嘩をした。怒鳴ったり、怒鳴られたり。殴ったり、殴られたり。パワーが五分ぐらいだったので、かなり痛い。嫁は絶対に間違ったことを言わないので毎回最後は僕が謝るしかない。男としてのプライドが~なんて思ってる時期もあったが、今ではすっかり調教されそんなプライド微塵もない。すぐ謝ったほうが良いことに早く気が付けばよかったな、なんて思う。

 

年に何回かは大きな喧嘩をしていたのだが(今は全然喧嘩しないラブラブ)、そんな時は大体、一方的に僕が悪い女関係だった。詳細は言いたくないし思い出したくもないから書かないが、まあそれとなく女友達と隠れてラインしたり遊んだり的なことをすることもあった。男だからしょうがないと思ってほしい。が、そんなことうちの嫁に通じるわけがない。まず第一に、しょうがなくないし男は馬鹿で愚かな生き物だ。

 

あ、長くなったからこの話やめよ。

 

 

 

 

 

 

上矢印

今、嫁が3回目の一時退院中で嫁の友達と最高にうまい肉を頂きました。

 

 


 

 

 

 

 


みなさんご存知の通り僕は人見知りだ。

友達の友達とか1番やっかい。本当に苦手。

嫁以外の人にベラベラ喋ることはあまりしなかった。つまらない話をしてしまい、あ、こいつ、つまんねえやつだなと思われるのが本当に嫌だったから。

学生時代は面白いやつが最強だと思ってた。なんなら、大阪に出てNSCに入ろうかと考えた時期もある。(嫁の隣にいたかったから諦めたというか、僕にそんな勇気はない)



おかげさまで専門学校に入学してからの1ヶ月間は友達ができなかった。

なめられたくなくて、尖ってたのもあり周りが近づいてこなかった。こちらから声をかけることもあまりしなかった。


一方嫁は嫁で最初に仲良くなった子が割と問題児だったりして、苦労していたらしい。まあ僕よりは社交性があり、面白くて頼られる人間なのでそこまで心配していなかった。頼られすぎて、後に色々とトラブルが起きてしまうが、、、この話はまた後で。




高校生の頃も1年生の時はクラスに馴染めなかったことを思い出した。文系のノリが苦手というか、嫌いなタイプの人間を否定することで自分を肯定することに必死だった感じ。(テレビで某有吉様がおっしゃられていた言葉をそのまま拝借)




学校に行きたくない日々が続き、5月の後半ぐらいに差し掛かったところで学生ならではの試練が訪れた。


定期試験だ。



リハビリの学校は、授業科目が多く、その分試験科目が大量にある。1つでも単位を落とすと即留年。1年生で留年する人は大体学校を辞めていく。そんな流れがある。早い段階で自分はこの仕事に向いてないと判断することも人生においては大切なことだろう。


しかし、私は絶対にそんなことは許されない。

なぜなら、奨学金を借りているから。


親とろくに話もせずに進路を決めてしまったが故に、何も考えずに専門学校への進学を決めたので奨学金を借りる羽目になっていた。


この先長い年月をかけて奨学金を返していかなければならないのに、こんな所で躓くわけにはいかない。まず、親に示しがつかないと尻込んでいた。



ちなみに、嫁は優秀なので地元で5年間看護師として働けば返さなくていいという奨学金を県から支給されていた。勉強しておけばよかった。




そう、僕には勉強する習慣が全くない。ポテンシャルで今まで乗り切ってきたが、そういう訳にはいかない。解剖学、生理学、運動学などなど、、、こんなものほとんど暗記するしかないのだ。



多少は嫁と勉強の内容を共有できたりしたが、やはり授業のニュアンスが違うので全く一緒の勉強というわけにはいかない。



友達を作らなければ!!!!



とまあ、別に焦ったわけでもないがなんとなくみんなに溶け込んでいくと、周りが近づいてこなかったのには理由があったことが判明した。みんな僕のことを歳上だと思っていたらしい。色々な勘違いが重なってそういうことになっていたのだ。




そんなこんなで1人、2人、また1人と友達を増やしていきどうにかこうにか定期試験を乗り越えることができた。学生の定期試験に必要なのは、学校の近くに住んでいる友達と先輩から貰う過去問だけだ。




無事に試験を乗り越えて、夏頃、生活に変化が起きる。


家に帰ると父親から他県に単身赴任することを伝えられた。以前も同様な話が上がっていたそうだが、母が亡くなって間もない時期であったため当時は見送られたらしい。そして、しばらくして子供達が手のかからない年齢になり、再度転勤の話を持ちかけられたとのことだった。



正直、転勤で1番応えたのは父親だろう。(知らない土地で1人で働くのは相当ストレスだったみたいで、1度嫁を連れて父親の元に遊びに行った時は大喜びしていた)



自由になれると思った。別に縛られたことはないけどね。



僕には3つ上の姉がいるが、当時はすでに社会人だったためあまり家に帰ってくることはなかった。


数日後。


ある日嫁の実家に遊びに行っていた時に、家に帰っても誰もいない状況になったことを伝えると嫁が言った。



じゃあ帰らなくていいじゃん。




この日から、嫁の実家に居候することになった。








上矢印

嫁が書いた娘のイラスト。絵が上手なの。うふ。






嫁はプレッシャーに弱い。考えすぎる性格だし、緊張しいなところがある。その性格のおかげで助かったことは何度もあるが、失敗することもぼちぼち。


1番最初に目の当たりにしたのは受験だった。


嫁は私学の高校の特進クラスに通っていて、朝から晩まで勉強漬けの毎日。特に数学が得意で、国立大学の合格基準レベルまで達していたほどだった。


地元から少し離れた県立の大学に嫁が進学する話も出ていたが、僕と離れて生活することが心配だったようで電車で通える距離の国立の専門学校を受験することにした。



受験当日、事件が起きた。



1番得意な数学に意気込んで臨んだが、第問1の1問目が解けなかった。そのことで頭がパニックになったらしく、手が震え出す。落ち着こうとすると余計に混乱していき、遂には頭が震え出したらしい。おかげさまで数学はズタボロ。得意科目で本調子が出なかったせいで、その後の科目も順調に点数が伸びず、受験は失敗に終わった。(これは今までで僕が知ってる嫁のエピソードの中で1番好きな話だ)


今では笑って話せるが、当時はだいぶ落ち込んでいたことを覚えている。


僕は一足先に先輩が通っているリハビリの専門学校に進学を決めていた。2科目のテストと面接だけで受かるので、あんまり勉強しなかった。何度か嫁に勉強を教わろうとしたが、途中でふざけ出してしまうので上手くいったことはない。


遂に周りの人たちの大学入試も終わっていき、嫁は進路先が見つからずにいた。どういった経緯でその学校を見つけたかは詳しくしらないが、嫁の家から自転車で行ける範囲に新しく昼間部が発足した看護の専門学校があり急遽その学校を受験することになった。バタバタ願書を提出し、期間ギリギリで受験することができた。1度失敗したこともあり、多少は余裕を持って受験できたのであろう。受験当日に学校から電話があり、是非うちの学校に来て欲しいとのことだった。入学試験は主席で通過していたらしく、新入生代表の言葉まで学校から頼まれていた。


国立の学校に比べると偏差値は下がってしまうが、まあ勉強が出来る人が全員看護師になれるわけではないので、特に気にすることもなく家から近い専門学校に進学を決めた。



勉強が出来るから偉いわけではないが、勉強が出来る人は選択肢が多くなるし、上のレベルを目指していると失敗した時のリカバリーが早い段階で可能であることを痛感した。


僕はあまり勉強が得意ではなかったので、嫁が勉強が得意なことが凄く尊敬できるし誇らしかった。今まで会った人の中で嫁が1番面白いと思っているし、頭がいい人間はやっぱり面白い話ができる人なんだなと思っている。


入学試験が無事に終わり僕たちは高校を卒業した。


僕の卒業式には嫁が校門まで迎えに来てくれて、僕の友達と3人でそそくさと帰ってやったのを覚えている。卒業アルバムには寄せ書きなんかひとつも書いてもらわなかった。嫌われているわけではなかったが友達は少ない方だったから。嫁がいれば十分だった。



高校を卒業してからの1ヶ月間は休みが続くので、毎日嫁と遊んでいた。嫁の受験が長引いたこともあり、いつもより余計にひっついて遊んでいた気がする。毎日幸せだった。




そして、晴れて僕たちは専門学校に入学した。




上矢印

娘がお小遣いくれそうな顔をしている写真。今3ヶ月でぽちゃぽちゃしている。死ぬほど可愛い。




8ヶ月ぶりに会った嫁は少し痩せていて髪を切っていた。少し緊張しながらファミレスで最近の話をなんとなくした。


会話の流れで将来の話になり、嫁が看護師になると言った。国立の看護学校を受験するらしい。そう何を隠そう、うちの嫁は頭が良い。僕は夢や目標なんか何もなかった。


軽い近況報告を終え、長居するのも悪いなと思い家路に着いた。以前と同じように会話ができたのがすごく嬉しかった。


また会いたいなと思った。


何度か友達として嫁に会っていたが、それが彼女として嫁に会うまでに時間はかからなかった。


僕は考え出したら止まらない性格なので、すぐに付き合ってる彼女に別れを告げた。どこまでも自分勝手でクズだ。クラス中の女子からの目線が怖かった。が、そんなことも気にしなくていいぐらいに嫁と一緒にいられるのが嬉しかった。


嫁は8ヶ月の間ずっと僕を待っててくれた。いつか、絶対に戻ってくると思っていたらしい。


お互いに受験生ということもあり、寄りを戻してから会う頻度はそんなに多くなかった。特に嫁は勉強熱心で、朝から晩まで勉強していた。


進路希望調査があったので、なんとなく将来のことを考えてみた。サラリーマンになりたくはない。毎日スーツを着て出勤し、帰宅して1人で酒を飲んで酔い潰れてる父親をずっと見てきたから。スーツに対してあまり良い印象を持ってなかった。


嫁が看護師になると言っていたので、病院で働ける職業に就けばずっと嫁の側にいられるなと思い、医療職を調べてみた。なんとなくみんなが理学療法士という言葉を口にし出していたので、進路希望調査表にはリハビリの専門学校の名前を書いた。


クラスの男子の大半が医療系の学校に進むクラスに属していたこともあって、なんとなく理学療法士を目指すことにした。


僕は周りに流されながら、適当に生きていた。








嫁が一時退院していたので、更新が遅れました💦

写真は曽祖父母の家を訪ねた写真です!!

明日から第3クール開始です!!