桜の花を眺めるにつけ、
松の木の陰に休むにつけ、
道を歩むにつけ、
我が家にいるにつけ、
忘れやすいのは、
どれだけの人が心を尽くして我々のために便利を残してくれたことかということだ。
樹を植えた人や、
道をつくってくれた人の名は知らなくても、
故人に感謝の心を忘れてはならない。
昔誰か かかる桜の花を植ゑて
吉野の春の 山となしけむ
〈藤原良経 〉
※
この時期は桜の描写が多いですね。
本居宣長の有名な歌で、
敷島の 大和心を人問はば
朝日に匂ふ 山桜花
よく日本人の精神性を桜の花に例えられますがどうしてでしょうか?
「国家の品格」からの引用です。
薔薇の花は色も香りも濃厚で、
美しいけれどトゲを隠している。
なかなか散らず、
死を嫌い恐れるかのように、
茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。
それに比べて我が桜の花は、
香りは淡く人を飽きさせることなく、
自然の召すまま風が吹けば潔く散る。
そして我が心の師、新渡戸稲造は、
太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、
桜の芳香朝の空気を匂わす時、
いわばこの美しき気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない。
と、この清澄爽快の感覚が大和心の本質であると説いてますが、
花見を楽しむ文化は残っていても、
GHQから始まったこれだけの薔薇の欧米文化が輸入されている中で、
桜の散り際を大和心と捉える日本人はどれだけ残っているでしょうか?
もう一度「武士道」の読み直しだな。
昨日は息子の入学式。
給料日は来るのが遅いですが、
月日が経つのは早いですね。
