今年のGWは夫の仕事が前半に3連休、後半に4連休というカタチになったのですが、

 

後半の4連休に予てからの予定通り丹後国但馬国播磨国の一の宮をお詣りして

 

きましたニコニコ。その参詣記はいずれUPさせていただく予定ですが、いまは4ヶ月前の

 

紀伊国の参詣記の続きを汗…今回は補陀洛山寺さん(こちらの記事もどうぞ ウィキ

 

ペディアはこちら)参詣記です(;^_^A。

 

※補陀洛山寺さんは那智山青岸渡寺さんの別院です。こちらを参照なさってください<(_ _)>。

 世界遺産 文化遺産オンラインの解説(こちら)もどうぞ。

※2024年4月4日に「補陀洛山寺公式HPが開設されました」とのことです。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

那智勝浦観光サイト」の「補陀洛山寺【世界遺産】」のページには

 

 

海のかなたにある観音浄土を目指す補陀落渡海の出発点

 
   補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は、那智駅から徒歩5分のところにあり、
   熊野三所 大神社(浜の宮王子)に隣接しています。

   御本尊は三貌十一面千手千眼観音(さんみゃくじゅういちめんせんじゅ
   せんげんかんのん)で、国の重要文化財に指定されています。

   「補陀落(ふだらく)」とは、サンスクリット語で観音浄土を意味する
   「ポータラカ」の音訳です。
   かつては、お寺の目の前が浜であり、868年から1722年まで、僧が浜から
   南の海のかなたにあるといわれる観音浄土を目指して船出する捨て身の業
   「補陀落渡海(ふだらくとかい)」が行われていました。

   補陀洛山寺の境内には、補陀落渡海の際に僧が乗り込んだとされる「渡海船
  (とかいせん)」を復元したものが展示されている他、那智の浜から観音浄土を
   目指して船出したと伝えられる僧達の名前が刻まれた石碑があります。
 
 
と解説があります。
 
 
 

 

那智の浜から観音浄土を目指して船出したと伝えられる僧達の名前が刻まれた石碑

 

 

 

記念碑全体を写した写真が無かったので、お寺でいただいた「補陀洛山寺渡海上人

 

一覧」を挙げておきます(新宮市の「補陀落渡海の記録」も参照なさってください<(_ _)>)

 

※「補陀落渡海」については国土交通省のこちらの記事や、ウィキペディアの「補陀落渡海」、新纂

浄土宗大辞典の「補陀落信仰」、神戸新聞のこちらの記事等を参照なさってください<(_ _)>。記念碑

全体を写した写真は「ぐるりん関西」のこちらの記事にありました💦。

 

 

 

 

 

☝石碑に刻まれた渡海船。「南無阿弥陀佛」と記された帆が風に膨らんでいます。

 

 

 

 

 

 

補陀洛山寺さんの境内から熊野三所大神社さんのお社が見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

     

    

 

 

木の葉の影と逆光で見えにくい(申し訳ございません<(_ _)>)ですが、木札に

 

「補陀洛渡海の寺」、「天台宗 補陀洛山寺」とあります。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補陀洛渡海船の写真は日本経済新聞のこちらの記事にもあります(「熊野那智世界

 

遺産情報センター」のこちらの記事も御覧じられたし)。

 

 

 

 

 

 

 

 

南洋の彼方にあると信じられた補陀洛浄土こちらも参照)を目指して、小舟で沖へ

 

出た渡海上人と呼ばれる僧侶の方々を供養する塔への案内…「平維盛・時子供養塔」

 

ともありますが、維盛卿(こちら参照)は新宮市の「補陀落渡海の記録」のリスト

 

にも、“平維盛熊野那智浦に入水”と記されています。平時子についてはこちら

 

どうぞ。 時子=二位尼は「補陀落渡海」をした人ではありませんが、「波の下にも

 

都の候ぞ」と安徳天皇を抱いて壇ノ浦に身を投げた最期は「補陀落渡海」に通じる

 

ものがあるかもしれない…〝火打石〟が補陀落渡海について知ったのは、この維盛卿

 

の入水について『男は美人の嘘が好き:ひかりと影の平家物語』(大塚ひかり 著)

 

で読んだ時なのですが、このことが〝火打石〟の補陀落渡海に対する考えにかなり

 

影響を与えていると思う…。

 

 

 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

補陀洛山寺さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“9世紀半ば過ぎから18世紀初頭まで、小さい船に閉じ篭もり30日分の油と食糧を

 

たずさえて、南方海上にあると想像された補陀洛世界の観音浄土を目指すという

 

補陀洛渡海(ふだらくとかい)の出発点”(こちらより引用)だった補陀洛山寺さん…

 

≪那智参詣曼荼羅≫(こちら参照)には補陀落渡海を人々が見送る様子が描かれて

 

いますが、〝火打石〟は補陀落渡海に昨夏参詣した出羽の即身仏(こちら)を連想

 

してしまう…「即身仏」も「補陀落渡海」も捨身業の一形態だと思いますが、こう

 

言っては不謹慎の極みですが、どちらの「業」にも多分にショー的な要素が透けて

 

見える気がして。ウィキペディア「補陀洛山寺」の「渡海者と金光坊」の項には

 

 

渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼

として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて6名が渡海

したと、補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になると60年間で

9名もの渡海者が現れたという。この頃になると、熊野三山への参詣者が減少したこと

から、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され

勧進のための手段としての側面が現れたとされる。

 

 

とあるのですが、この“勧進のための手段としての側面”が、要は見世物のように

 

思えてしまうということなのですね(出羽の湯殿山の即身仏についても、ウィキ

 

ペディア「出羽三山」やこちらの記事を読むと、信者獲得(?)のための見世物の

 

ようにも思えてしまう。“出羽三山で有名な即身仏は、真言宗の湯殿山派で行われたものであり、

 

天台宗の羽黒山・月山派では行われていない。即身仏が残されている大日坊、注連寺は、いずれも

 

湯殿山4ヶ寺である。”などという記述も〝火打石〟の想像を裏付けているように感じてしまう

 

のです僧侶が衆生の救済のために地中に埋められたり大海原へ小舟で流されたり

 

する図は、とてもドラマティックなショーにも成り得ましょう。人間は残酷にも

 

惹かれますし、そしてそれは熱烈な信仰を目覚めさせるきっかけにも成り得るで

 

しょうから。キリスト教の磔刑などの殉教も然り(まぁあちらは殉教者の生身の苦痛

 

を直接に見せるのが、僧侶の苦痛と死を間接的に想像させる即身仏や補陀落渡海とは

 

違いますが汗)。とんでもなく不遜なことを書いてしまい、この駄文にお怒りに

 

なられた方もいらっしゃるかもしれませんが、〝火打石〟は捨身業や殉教を貶める

 

つもりは毛頭ありません。宗教にだって“オトナの事情”は絡むし、「見世物」にも

 

聖なるものは宿る…補陀洛山寺さんの参詣記を書きながら、柄にも無く壮大なことを

 

考えてしまった〝火打石〟なのでした(;^_^A。