昨冬に続いて那智山を(車で)上り、飛瀧神社さん、青岸渡寺さん、熊野那智大社

 

さんをお詣りした後、山を下って「補陀洛渡海」で知られる補陀洛山寺さんを参詣

 

しようとした〝火打石〟夫婦。

 

 

 

 

駐車場に車を停めて、補陀洛山寺さんをお詣りする前に、お寺さんに隣接して鎮座

 

される熊野三所大神社さん(ウィキペディアはこちら 和歌山県神社庁のページは

 

こちら)を参拝しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊野三所大神社さんは“九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、

 

浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。浜の宮王子の守護寺である

 

補陀洛山寺が隣接しており、神仏習合の名残をみることができる。”とウィキペディア

 

にあります。

 


 

 

 

 

藤原宗忠の日記、『中右記』”と聞いて、“藤原実資の日記『小右記』”と連想して

 

しまう〝火打石〟はもうすっかり『光る君へ』にハマってる!?。宗忠卿と実資卿の

 

時代差は、実資卿の生没が天徳元年(957年) - 永承元年(1046年)、宗忠卿の生没

 

が康平5年(1062年) - 永治元年(1141年)ですから(ウィキペディア参照)、

 

だいたい50年くらい(実資卿が亡くなって十数年後に宗忠卿が生まれる)と言って

 

良いでしょうか?。『中右記』も『小右記』も、彼らの生きた時代を知る上で貴重な

 

史料とされるそうです。(文中にある「岩代王子」についてはこちらの記事をご覧に

 

なってください。みなべ観光協会のページはこちら。ウィキペディアはこちら。)

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

「渚の森」についてはこちらの記事をご覧になってください<(_ _)>。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「那智勝浦観光サイト」では熊野三所大神社さんの御祭神は“熊野那智大社の主祭神で

 

ある熊野夫須美大神”、“熊野本宮大社の主祭神である家津御子大神”、“熊野速玉大社

 

の主祭神である熊野速玉大神”と紹介されています(ウィキペディア「熊野権現」も

 

参照されたし)。御由緒についてはウィキペディア「熊野三所大神社」の「歴史」の

 

項に

 

 

古くから熊野那智大社末社で、『中右記天仁2年(1109年)10月27日条に「浜宮

王子」と見える。平安後期頃の神像3体(大山祇命、天照大神、彦火火出見命)が伝来

していることから熊野三所権現が祀られていたと考えられているが、江戸時代中期に

著された地誌『熊野巡覧記』は異なる神名を挙げており、時代によって祭神が変化

していたようである。江戸時代の沿革は未詳だが、濱ノ宮村の産土神として崇敬され

ていた。明治の神仏分離に際して補陀洛山寺から独立して村社明治6年〈1873

〉)となり、明治末年に現社号にあらためられた。

 

 

とあります。

 

 

 

 

☝の文中に“二社の摂社”について解説がありますが、“本殿の両側に建てられて

 

います。”とのことですが

 

 

 

 

赤線で囲んだ部分(鳥居が見えますが、判り難くて申し訳ございません<(_ _)>)の

 

ことですね汗…“右側の社殿は熊野に上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畔

 

を祀っており”とありますが、このことはこの参詣記を書く際初めて知ったガーンガーンガーン

 

(なのでちゃんとした写真が無いドクロ)。丹敷戸畔さま、申し訳ない<(_ _)>…

 

丹敷戸畔」(こちらの記事もどうぞ)と聞いて思い出したのが「名草戸畔

 

(ウィキペディアはこちら)。昨年「紀伊国で寺社めぐり」の参詣記を書いている時

 

に「名草戸畔」のことを知りましたが、今回は「丹敷戸畔」…どちらも神武天皇に

 

抗って戦い敗れた女性の首長となるわけですが、う~ん、古代浪漫の世界だなぁ照れ

 

もっと彼女らのことが知りたい…などと今更な発言ですが汗

 

 

「丹敷戸畔」についてはアメブロのzentayaimaさんのこちらの記事をお読みになって

ください<(_ _)>。zentayaimaさんの、“日本書紀には、荒坂の津に至る前にも名草

邑(和歌山市名草山あたり)で「名草戸畔といふものを誅す」とあり、こちらもトベで

ある。管見では天皇を除いて古代豪族に名の見える女性族長はほとんどいないと

思われるが、紀伊には多くいたのだろうか。”という御意見や、“神武一行は熊野に

上陸した後、丹敷戸畔率いる土地の部族に阻まれ、毒気を吐かれて「をえる」(病み

疲れる)とある。丹敷戸畔の「丹」は辰砂、硫化水銀であり、熊野に鉱山が多い事から

すると、鉱毒にやられたと考えることが出来るかもしれない。”という御意見には

〝火打石〟も同考…「丹敷戸畔」の“丹”は丹生都比売さまの“丹”ですものねあせる

(「丹敷戸畔の墓」についてはこちらの記事をお読みになってください<(_ _)>。)

国土交通省のこちらのページにも「丹敷戸畔」に触れています。“右側の社殿は熊野に

上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畔を祀っています。 反対側は食と稲作

の神である御食津神(三狐神)を祀っています。”とあるのですが、「み熊野ねっと」

の「熊野三所大神社」には“また、三狐神もまた、食物の神とされていますが、謎の

神様。奈良県十津川村の玉置神社にもこの神様が祀られています(全国熊野神社参詣

記の熊野三所大神社の頁もご覧くださいませ。てつ自らの投稿です)。”とある…

玉置神社さんもいつかはお詣りしたいなぁ照れ。昨年もそんなこと言っていたような

気がしますがあせる

 

 

 

 

熊野三所大神社さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。

 

 

 

 

 

 

 

☝こちらから書き置きの御朱印を拝受しました。

 

 

 

 

ウィキペディア「熊野三所大神社」には“『平家物語』巻10に平維盛が一艘の舟に命運

 

を託して出向するさまが描かれたり、那智大社ほか各所所蔵の那智参詣曼荼羅に社前

 

の浜から渡海船で出航する渡海僧が描かれているように、補陀洛山寺とともに

 

補陀洛渡海の伝承地である。”(「歴史」)と記されていますが、次回は補陀洛山寺

 

さんの参詣記となります。UPはGW明けとなってしまいますがショボーン…気長にお待ち

 

くださいますようお願い申し上げます<(_ _)>。