東日本大震災から13年が経って、元日に能登半島で大地震があって…元千葉県民の

 

〝火打石〟(北総の住民でした)としては、千葉県東方沖で頻発している地震も気に

 

かかりますショボーン。実家は千葉県北西部(東葛飾 こちら参照)ですが、「地震相次ぐ

 

千葉県、飲料水や非常食の買いだめ急増」などというニュース(こちら)を聞くと、

 

父母や(数少ない)友人は大丈夫なのかと心配になるショボーン…って、埼玉県南部(南中部

 

こちら参照)に住んでいる自分も千葉県東方沖で地震が起きれば無事では済まない

 

だろうにドクロ。本当にこの国は災害大国ショボーン。なゐ(地震)もあらし(嵐)もヒトの力

 

ではどうしようもない…被災された方々の慟哭は明日は我が身と戒めて、今日も私は

 

ブログを書く。今回は高野山の徳川家霊台(ウィキペディアはこちら)の参詣記…

 

徳川家霊台は、“寛永20年(1643年)に三代将軍・家光によって建立されました。

 

一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでおり、向かって右

 

が東照宮家康公霊舎(おたまや)、左が台徳院秀忠公霊舎となっています。境内の

 

東端には三代将軍以下および御三家の尊牌堂(そんぱいどう)がありましたが、明治

 

21年(1888年)に焼失してしまいました。”とこちらにありますが、

 

 

 

 

 

 

 

 

(蓮花院についてはこちらをお読みになってください<(_ _)>。

 

 

 


 

 

いただいたフライヤーに目を通すと、家光公の“お祖父さまLOVE”が高野山でも炸裂

 

(?)しているような汗。(“日光東照宮に先立って造営されたもの”という表現に

 

高野山のプライドを感じてしまうのは〝火打石〟だけでしょうか!?。) フライヤー

 

の解説を読んでいると、特に「高野山と徳川家の関係」の解説の箇所は『どうする

 

家康』を思い出させるなぁ…ウィキペディアの「松平親氏(松平太郎左衛門親氏)」

 

には、“江戸時代に作成された系譜において松平氏徳川氏の始祖とされている

 

人物”、“徳川家の始祖と崇められたことから江戸期の諸資料では父祖の系譜は、新田

 

源氏世良田氏の末裔と記載される”、“しかし、この系譜は徳川家康永禄9年(1566

 

)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史

 

学者渡辺世祐により論証されている。今日の学界では家康によって粉飾された系譜と

 

いうのが通説になっている。”とありますが、系図粉飾、この辺り、ドラマでも描写

 

されていましたねあせる

 

 

 

 

 

 

 

こちらの解説もお読みになってください<(_ _)>。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   案内に従って進んでいくと…

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

受付を済ませ、御朱印帳をお預けして石段を上り門を潜って…

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

“家康霊屋前にのみ鳥居が建つのは、家康が東照大権現という神として祀られている

 

ことによる。”(ウィキペディア「徳川家霊台」の「建築」より)

 

 

   

 

 

 

 

 

 

     

 

 

この鷹の絵、愛知県岡崎市に御鎮座の伊賀八幡宮さんの御朱印帳を思い出させる…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは秀忠公の霊屋の写真となります。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

   

 

 

躍動感のある唐獅子。“内壁は金箔貼りで、家康霊屋には鷹が、秀忠霊屋には獅子が

 

描かれている。これは家康が鷹狩を好んだことにちなみ、また獅子は、秀忠の守り

 

本尊である文殊菩薩が乗る獅子にちなむと考えられている。”(ウィキペディア

 

徳川家霊台」の「建築」より)

 

 

 

 

 

 

 

徳川家霊台の二棟は国の重要文化財に指定されています(こちら参照 こちら

 

どうぞ)。“内部は絢爛豪華(けんらんごうか)な須弥壇(しゅみだん)と厨子

 

(づし)を設け、蒔絵などが施されています。”とこちらに記されていますが、残念

 

ながら内部は非公開…特別に公開されることもあるようですが(こちら参照)、武州

 

暮らしの〝火打石〟夫婦はそのタイミングに合わせてお詣りするのは難しいえーん

 

とはいえ外観だけでもその豪奢ぶりは堪能できる…こちらのサイトでは徳川家霊台の

 

ことを「西の東照宮」と言っていますが、“素木に飾り金具を重ね張りし彫刻をはめ

 

込んでいる外観”の豪奢さを、☝の写真から感じていただければ幸いです(;^_^A。

 

 

 

 

 

 

参詣を終えて、受付で御朱印を拝受ニコニコ

 

 

 

 

高野山は豊臣秀吉の庇護を受けていたため、徳川家から敵視されることを恐れたが、

1600年慶長5年)に家康から寺領の安堵を得た。また1601年(慶長6年)には

高野山宛の朱印状にて寺領安堵を得た。しかし、いつ寺領没収などの下達があるとも

限らず、当時の高野山にあった学侶行人の三派による幕府への忠誠競争を

招いた。あるいは、忠誠競争でないにしても、高野山を存続させるうえで、新幕府に

忠誠を誓い接点を持つことに重要な意味があった。1617年元和3年)、学侶方の

青巌寺が主殿に家康像を安置し本尊とした。1628年(寛永5年)には行人方の興山寺

が境内に東照宮を造営して3年後に落成し、聖方では大徳院が10年の歳月を費やし

て、1643年(寛永20年)に徳川家霊台を落慶法要した。当時、東照大権現を祀る建築

物には幕府の許可が必要で、装飾技法の粋を極めた霊屋を作ることで徳川幕府に忠誠

を誓う証とした

 

 

☝の文章はウィキペディア「徳川家霊台」の「歴史的背景」の項から引用いたし

 

ましたが、これを読むと高野山の“大人の事情”を痛感させられる汗…お寺さんだって

 

時の権力と無縁ではいられないのよねドクロ。〝火打石〟の寺社めぐりの楽しみの一つは

 

神社仏閣のこうした生臭い歴史を知ること。嫌な性格だと自覚はしていますが汗

 

徳川家霊台をお詣りした後はいよいよ奥之院を参詣ニコニコ。“高野山の信仰の中心で

 

あり、弘法大師さまが御入定されている聖地”をお詣りする…次回UPいたしますねあせる