前回の観心寺さんの参詣記から間が空いてしまいましたが、今回も正月五日の河内国
でのお寺めぐりの記を…河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院、観心寺さんを
陽が傾きかけた頃お詣りして、どうしても日暮れ前に河内長野市天野町の金剛寺さん
(ウィキペディアはこちら)をお詣りしたかった〝火打石〟、観心寺さんの霊宝館の
拝観を泣く泣く諦めて、いざ詣でん、日没と一刻を争い天野山寺(金剛寺さんの
別称)へ…
※金剛寺さんについては河内長野市観光ポータルサイトの「天野山金剛寺」も
お読みください(こちらもどうぞ)<(_ _)>。
河内長野市寺元から天野町へ…「(閉門に)間に合わなかったら間に合わなかったで
もう仕方ないよね」、「駄目元で行こう」と車中で弱気な会話をする〝火打石〟
夫婦。まぁいつだってこんな調子で寺社めぐりに勤しんでいるわけですが。弱気
だがしぶとく諦めないというか。今回も期待半分諦め半分の思いで車を走らせて、
辿り着きました金剛寺さん。楼門は開いていましたが、もうお寺の方が閉門の準備
をしている模様。慌ててお詣りさせていただくことに。
(金剛寺さんの境内についてはこちらの「見どころ」をご覧ください<(_ _)>。)
すでに人気のない境内。兎にも角にも受付を済ませ、金堂に合掌。御朱印の授与を
お願いして、境内を一巡…
私たち夫婦の参詣ではよくあることとはいえ、閉門ギリギリでの参詣(善い子はマネ
をしてはいけません)、今回は常にも増してのギリでしたので(いくら河内まで
出る機会が少ないからって、無茶し過ぎだろ)、金堂に掌を合わせるのが精一杯
だった…参詣の記念に写真も撮らせていただきましたが、カメラに収めることが
できたのは金堂と多宝塔、薬師堂と五仏堂と観月堂・御影堂かな?。金剛寺さんの
金堂をはじめとする諸堂は国の重要文化財に指定されていて(河内長野市のこちらの
ページ参照)、じっくり拝観したかったところですが、時間に追われた哀れな〝火打
石〟夫婦。
※金剛寺さんは“5件の国宝と29件の重要文化財”を所蔵されていらっしゃいます
(こちら参照)。文化庁の「日本遺産ポータルサイト」では「金剛寺の建造物群」
が紹介されています。同じく文化庁の「文化遺産オンライン」でも「金剛寺金堂」
「金剛寺多宝塔」など諸堂が紹介されていますのでご覧になってください。
※こうして参詣記を書きながらネットを浚っていると、金剛寺さんの金堂に安置されている木造大日
如来坐像、木造降三世明王坐像、木造不動明王坐像(いずれも国宝)が美しく照明の光に浮かんで
いる写真の記事を偶然目にしました(こちら)。参詣した時は直接寺宝の仏像を拝めず、参詣記を
書く際にネットでそのお姿を目にするのは間々あることですが、今回はさすが照明器具の会社
(YAMAGIWA)さんの記事だけあって御仏の御姿が闇に美しく浮かんでいる…いつもこうして御仏を
拝観できたらなぁと思わず妄想してしまいました。
境内をざっと一巡(失礼)して、天野川に沿って駐車場の方へ歩いていくと
(こちら参照)案内の看板が。
ウィキペディア「金剛寺(河内長野市)」の「概要」には
南北朝時代(1336年 - 1392年)には、南朝の最重要拠点の一つとして、枢要の地位
にあった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には、後醍醐天皇によって勅願寺に
指定された。さらに、正平9年/文和3年(1354年)10月28日から正平14年/延文4年
(1359年)12月まで、南朝第2代後村上天皇の行宮(仮の皇居)が置かれている。
とあり、「歴史」の“南北朝時代”の項には
鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代
には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日
には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。もともと後醍醐天皇は河内国の真言宗
諸寺院とは親しく、また(既に故人となっていたが)武将楠木正成との関係もあると
考えられている。
正平9年/文和3年(1354年)3日22日、南朝は観応の擾乱末期に捕縛していた北朝の
光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を、大和国賀名生から当寺に移動
させると観蔵院をその行宮(仮の住まい)とした。10月28日には後村上天皇自身も
到来し、塔頭・摩尼院を行宮として、南朝の本拠地に定めた。また、食堂を政庁
天野殿(あまのでん)とした。
とあります。この日(1月5日)、強引だったとはいえ“南朝方の一大拠点”だった
観心寺さんと金剛寺さんをお詣りできたのは本当にラッキー…「河内長野の霊地」
をこの目で見られて本当に嬉しかったです。
摩尼院についてはこちらをどうぞ(「文化遺産オンライン」の「摩尼院 書院」の
ページもどうぞ)。
本来の参詣は駐車場から寺務所を経て本坊、庭園、奥殿(北朝御座所)と廻るもの
なのでしょう。〝火打石〟夫婦は駐車場から一気に楼門まで出て御堂を参詣し、駐車
場に戻るかたちで天野川に沿って歩いたわけです。結果、金堂に掌を合わすことは
できたけれども「北朝行在所」「宝物館」「本坊・庭園」「天野会館」はまったく
拝観できず。望み通り参詣できないだろうことは覚悟していたとはいえ、いざその
時になってみると、悔しさが募る…
情けない金剛寺さん参詣となってしまいましたがそれでもとても嬉しかった…閉門
ギリギリのお詣りを許してくださった金剛寺さん、本当にありがとうございました
m(__)m。
☝駐車場にあった「女人高野 天野山金剛寺」の看板。「女人高野」とはこちらの
記事に、“かつて高野山は女性の入山が禁止され、かわりに女性を受け入れた真言宗の
お寺を「女人高野」と呼びました。”とあるのですが(こちらの記事も参照なさって
ください)、今回の「紀伊国で(再び)寺社めぐり」で九度山町の万年山慈尊院さん
と高野町の不動坂口女人堂さんをお詣りできました。
残るは奈良県宇陀市の宀一山室生寺さん…いつかお詣りできるといいなぁ。慈尊院
さんと女人堂さんの参詣記は後日UPいたしますね(;^_^A。
金剛寺さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。
金剛寺(こんごうじ)は、大阪府河内長野市天野町にある真言宗御室派の大本山の
寺院。山号は天野山(あまのさん)。本尊は大日如来。五仏堂は新西国三十三箇所
第7番札所で本尊は千手観音である。境内の多宝塔は平安時代後期の建立で、日本最古
の多宝塔であると同時に大阪府最古の木造建築物である。
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも
呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。また
日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』
の構成文化財のひとつでもある。
ウィキペディアから引用いたしましたが、〝火打石〟は“奥河内の観光地の一つ”と
いう表現に注目…「奥河内」とは、“大阪府南東部に位置する金剛生駒紀泉国定公園の
一部である、金剛山地・和泉山脈一帯の観光名称である。一般的に大阪府河内長野市
南部と千早赤阪村全域にあたる山麓部を中心としたエリアを指し、広義には河内長野
市と千早赤阪村の全域に加え、隣接する富田林市と和泉市の一部が含まれる。”との
ことですが(ウィキペディアより こちらも参照されたし)、昨年(2023年)紀伊国
で寺社めぐりした際も〝火打石〟はこの大阪府と和歌山県の境の地域に惹かれるもの
を感じた…思えば〝火打石〟夫婦は奈良県南部の「吉野」(こちらも参照されたし)
で寺社めぐりをしたことがなく、そんなことを考えるともう居ても立ってもいられ
なくなる…嗚呼、もっと「奥河内」で寺社めぐりがしたい、死ぬまでに「吉野」で
寺社めぐりがしたい。今宵は聖ヴァレンタインの日なわけですが、チョコレートを
食べながら(夫はチョコが苦手なのでほとんど〝火打石〟が食べてしまう)神社
仏閣を詣でる計画を夢想する〝火打石〟なのでした。