嗚呼、もう睦月も半ばを迎えてしまうガーン…ブログが全然書き進まないえーんえーんえーん、と

 

嘆いていても始まらないので気を取り直して汗

 

 

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先日無事「紀伊国で寺社めぐり」を楽しみ、念願の高野山参詣も果たせた〝火打石〟

 

夫婦…紀伊國一之宮の丹生都比売神社さんの参詣も叶い、参詣記を書かねばと焦って

 

いるのですが何分にも出羽国の参詣記が書き上がっていないドクロドクロドクロ。今回は8/17の

 

出羽神社(三神合祭殿)の参詣記となりますが、お盆の参詣記を正月にUPするのは

 

さすがに恥ずかしいショボーン…もうやけくそのマイペース、季節の差異はお見逃しいただく

 

ことにして、淡々と参詣の次第を書かせていただきますね汗

 

 

 

 

 

 

 

国宝の羽黒山五重塔を拝観して(改修工事中でしたがドクロ)、いでは文化記念館

 

見学、この日最後の参詣は出羽三山神社(三神合祭殿)さん(つるおか観光ナビの

 

ページはこちら 羽黒町観光協会のページはこちら)。

 

 

 

 

 

 

 

駐車場に車を停めて出羽三山歴史博物館の前を過ぎて…お詣りの後入館しようと

 

思ったのですが、残念ながらこの日は時間が迫って博物館は見学できずショボーン

 

 

 

 

 

扁額には「出羽神社 月山神社 湯殿山神社」とあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五重塔に続いて三神合祭殿も萱葺替え中でした汗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

(「出羽神社(三神合祭殿)」の「境内ご案内」(こちら)も参照なさってください。)

 

 

三神合祭殿…ウィキペディア「出羽三山」には

 

 

  出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては

  「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山

  (真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、

  これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は

  「月山神社・出羽神社・湯殿山神社」である。三山のうち、羽黒山には

  3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町

  手向字手向7番地)とがある。

 

 

という解説があるのですが、「出羽三山神社」の公式ホームページ(こちら)で

 

「羽黒山」を開いてみると、「出羽神社(三神合祭殿)」と出るのですね。ウィキ

 

ペディア「出羽神社」には、“出羽三山は月山が過去、羽黒山が現在、湯殿山が未来を

 

象徴するとされ、それぞれ月山神社、出羽神社、湯殿山神社が鎮座する。宗教法人

 

してはこれら三山を一つの法人とし、登録名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社

 

(出羽三山神社)」である。羽黒山頂の出羽神社には三神合祭殿があり、宗教法人の

 

本部もここに置かれている。”…う~ん、これは「出羽三山神社(三神合祭殿)」≒

 

「出羽神社」という理解で良いということでしょうか?。まぁ〝火打石〟はそう

 

捉えて参詣記を書かせていただきます<(_ _)>。

 

 

 

 

 

 

出羽三山神社さんの御由緒はこちらをどうぞ。ウィキペディア「出羽三山」の

 

「歴史」の「開山」の項には

 

 

  出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子

  (能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏弑逆された時、

  蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きに

  よって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・

  湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。

 

 

と記されていますが、「崇峻天皇」や「蜂子皇子」と聞くと〝火打石〟は山岸凉子

 

先生の『日出処の天子』を思い出してしまう…あの作品では蜂子皇子は確か登場は

 

していなかったと思いますが(名前は出てくる)あせる。史実はどうあれ権力抗争で

 

居場所を失った悲劇の皇子が、都から遠く離れた地で新たな生を得たという伝説に、

 

〝火打石〟は心が休まる気がします。

 

 

 「出羽三山」の開山について、ウィキペディアは上述の「社伝」に続いて、“一方、出羽三山の

 修験道には、月山の祖霊信仰が結びついた土着の羽黒派修験以外にも、当山派本山派の修験も

 存在し、三修験の修行道場として共存していた。当山派や本山派では、空海役小角を出羽三山の

 開祖とした。このうち空海開基説は、真言宗湯殿山派諸寺において唱えられている説である。”と

 記しています。〝火打石〟夫婦が羽黒山の前に参詣した「湯殿山総本寺 瀧水寺大日坊」は“大同

 2年(807年)弘法大師によって開創され”とホームページ(こちら)にあります(ウィキペディア

 「大日坊」には、“出羽三山神社では蜂子皇子を出羽三山の開祖としているが、大日坊及び注連寺

 では空海を開祖としている。”とあります)。

 

 

 

 

 

 

三神合祭殿から、東照社へ(「境内ご案内」参照 こちらも参照されたし)。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

“寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の

弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の

周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。
爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。” (「境内ご案内」より引用)

 

 

 

     

 

 

第50代天宥別当を祀る天宥社(こちら参照)。天宥別当についてはこちらをお読みに

 

なってください<(_ _)>。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辰年なので龍神像をUPニコニコ。「鏡池」については「境内ご案内」をどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出羽三山の開祖とされる蜂子命さまをお祀りされる蜂子神社さん(こちらもどうぞ。

 

「日本伝承大鑑」のページ(こちら)もどうぞ)。蜂子命さまは☝の解説にある

 

とおり、崇峻天皇の第三皇子の蜂子皇子でいらっしゃいますが、ウィキペディア

 

羽黒権現」には、“崇峻天皇の第三王子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、

 

羽黒山の阿古谷で聖観音菩薩の霊験を得て開山したとされる。中世にはその垂迹神が

 

羽黒山大権現と呼ばれるようになった。”とある…ウィキペディアには、“各地に残る

 

羽黒神社は、かつての羽黒権現である。”ともありますが、ここにも明治の神仏分離

 

影が伸びているんだなぁと溜息ショボーン

 

 

 

 

 

出羽三山神社さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^_^*)

 

 

 

 

 

「卯歳御縁年」は過ぎてしまいましたが御容赦を汗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてお詣りさせていただいた神社仏閣の参詣記を書く度に、お詣りできた喜びを

 

思い出す〝火打石〟ですが、先日の「紀伊国で寺社めぐり」では、神仏に祈るのが

 

正直辛かったショボーン…私はこうしていつもどおり参詣できているが、お詣りしたくても

 

できない人が寒さや悪環境に苦しんでいると思うと祈ることさえ心苦しく思えて…

 

それでもとにかく掌を合わせねばと自分を叱咤しましたがショボーン。いま参詣記を書かせて

 

いただいた出羽三山の神さま仏さま、どうか新しき年の始めの日に地獄を見た方々を

 

お救いくださいm(__)m。その祈りをこの記事の〆とさせていただきます。