ついに師走に突入し、なのにブログ上は未だ葉月な〝火打石〟ショボーン。『どうする家康

 

だって残りあと2回だというのに(何故ここで『家康』が出てくる!?)、〝火打石〟の

 

出羽国参詣記はいったい何時になったら終わるのやら叫び…前回は山形県飽海郡遊佐町

 

蕨岡にある、鳥海修験の学頭寺だった龍頭寺さん(ウィキペディアはこちら)の参詣

 

記でしたが、今回は龍頭寺さんに隣接する鳥海山大物忌神社さん(こちらもどうぞ)

 

の蕨岡口の宮(こちら こちらもどうぞ)の参詣記。鳥海山大物忌神社さんは“鳥海山

 

頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌

 

神社と称”しますが(ウィキペディア「鳥海山大物忌神社」参照)、今回の出羽国旅行

 

では山頂御本社(こちら参照)はお詣りできなかったえーん…御朱印は吹浦口の宮で拝受

 

しましたが、もう一つの口の宮、蕨岡口の宮も参拝ニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   二ノ鳥居と社号標

 

 

 

 

 

随神門

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二ノ鳥居、随神門を潜ると左手に酒田の豪商本間光丘寄進の宝篋印塔が

 

 

 

 

 

 

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と謳われた酒田の豪商 本間家

 

(ウィキペディア「本間氏」の「酒田本間氏」参照)。今回の旅では残念ながら酒田

 

はゆっくり廻れなかったので、次の機会にはその栄華を偲びたいものです照れこちら

 

等参照)。

 

 

 

     

 

 

 

 

「鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮 随神門(こちら)」、「神楽殿(こちら)」、

 

「本殿(こちら)」は国登録有形文化財(建造物)となっています。

 

 

 

 

 

 

三ノ鳥居を潜って、本殿(!)を参拝…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蕨岡口の宮の拝殿は☝のとおり山の上に跡が遺っている状態…石段上りには燃える

 

〝火打石〟ですが、この時は情けないことに暑さに負けて拝殿跡は参拝しなかったガーン

 

申し訳ございませんm(__)m。拝殿跡の近くには蔵王権現の碑があるようですが、

 

「蔵王権現」といえば“日本独自の山嶽仏教である修験道本尊”(ウィキペディア

 

蔵王権現」参照)…こちらにも「神仏習合」の名残が目。嗚呼、気を抜かず石段を

 

上って拝殿の跡をお詣りしておくんだったドクロ(でも石段は400段あるとか…さすがに

 

この日は諦めたのが正解だったかな?)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

既に書きましたが、鳥海山大物忌神社さんの御朱印は吹浦口の宮で拝受します。

 

 

 

 

   

 

 

「摂社 風神社」、「末社 荘照居成神社」とありますが、荘照居成神社さんは“天保

 

年間の三方領地替騒動に関わる矢部駿河守定謙を祀る”とのこと。(こちらもお読みに

 

なってください。「三方領地替騒動」についてはこちら、矢部定謙についてはこちら

 

を参照なさってください。天保年間は“1831年から1845年までの期間”←ウィキペディア「天保

 

参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拝殿跡をお詣りしなかったのは心残りでしたが、とりあえずこれで鳥海山大物忌神社

 

さんの里宮の二宮は参詣できたニコニコ…こうして参詣記を書きながら、ざっくりですが

 

鳥海山大物忌神社さん(と龍頭寺さん)の歴史を勉強させていただくと、鳥海修験

 

との関わりで、なかなか興味深いものが…ウィキペディア「鳥海山大物忌神社」の

 

「歴史」の項に目を通すと、“創建に関する諸説”に

 

 

  景行天皇または欽明天皇時代の創祀と伝えられるが、創建時期には諸説があり、

  山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、時期の

  特定は困難である。鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、

  蕨岡の4ヶ所(鳥海修験 も参照のこと)があり、各登山口ごとに異なる伝承が

  伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争する

  ことも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況

  である

 

 

とあり…“一宮争い”も興味深い(失礼あせる)。そして“明治以降”を読んでいくと、“昭和

 

47年(1972年)、鳥海ブルーラインが開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象

 

としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代

 

(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の

 

痕跡もほとんどみられなくなった。”と記されていて、〝火打石〟は悲しい気分に汗

 

まぁそれも仕方の無いことなのでしょうがショボーン…クルマで山を登れる便利さを享受

 

しながら言うのもなんですが、「神仏習合」や「修験道」に惹かれる〝火打石〟

 

には、“神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくな”って

 

しまうのは悲しいショボーンショボーンショボーン。ウィキペディア「龍頭寺(山形県遊佐町)」にも

 

 

  蕨岡は慶応4年(1868年)の神仏判然令、明治初期の神仏分離に関わる政令、

  明治5年(1872年)の修験道廃止令を受け、明治25年(1892年)から新義

  真言宗智山派となった龍頭寺を除いて衆徒は神道に改宗して現在に至っている。

  しかし、神道化に関しては吹浦に遅れをとり、騒動と調停の後に、共に鳥海山

  大物忌神社の「口ノ宮」になったが、交通路の変化もあって衰退した。

 

 

と書かれていて(「歴史」)…時代の流れの中で、栄枯盛衰は仕方の無いことです

 

が、現在の蕨岡口の宮と龍頭寺さんにかつての隆盛を思い浮かべて〝火打石〟夫婦は

 

蕨岡を後にしたのでした。

 

 

 

 

 

追 記

 

蕨岡口の宮は映画『るろうに剣心・京都大火編』で、京都の神社のロケ地になった

そうですね(こちらの記事をお読みになってください<(_ _)>)。〝火打石〟は残念

ながら『るろうに剣心』をまるで知らないのですが、以前にもどちらかの神社さんが

『剣心』の映画のロケ地になったという情報を聞いたような…漫画やアニメから神社

仏閣に興味を持たれる方がいらっしゃるといいなと、寺社めぐり好きのおばさんは

夢想してしまいます(;^_^A。