(地図は鳥海山大物忌神社さんの参拝の栞から借用させていただきました。)
蚶満寺さんをお詣りして、母方の祖父の故郷、象潟(秋田県にかほ市象潟町)の地を
後にした〝火打石〟夫婦。日本海を右手に眺めながら国道7号線を南下…目指すは山形
県遊佐町に御鎮座の、鳥海山大物忌神社さん(遊佐鳥海観光協会のページはこちら
こちらの記事もどうぞ)の吹浦口の宮。鳥海山大物忌神社さんは、“鳥海山頂の
本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社
と称する。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。”とウィキ
ペディア「鳥海山大物忌神社」にありますが、今回は台風7号の影響を鑑みて山頂
御本社の登拝は見送ることに(台風はこの時点で日本海に抜けていましたが…)。
ともあれ目指すは吹浦口の宮…日本海を眺めながら遊佐町に向かいますが、日本海と
言えば昭和二桁生まれの〝火打石〟が思い出すのは2019年に芸能界を引退なさった
森昌子さんの名曲『哀しみ本線日本海』…って、真夏の青い空の下、“どこへ帰るの
海鳥たちよ シベリアおろしの北の海”はないだろうに。
実はかつて森昌子さんのファン(?)だった〝火打石〟…2019年の昌子さんの引退は
“二度目の引退”と言われましたね(こちら参照)。3年前の伊豆八十八ヶ所巡礼(こちら)
の時のテーマソング()は石川さゆりさんの『天城越え』でしたが、日本海側で寺社めぐり
をしている時は『哀しみ本線~』が脳内に甦る。歌うことが好きな〝火打石〟ですが、
先月のCOVID-19感染後喉の調子がいまいち戻らなくて苛立っています。←参詣記から脱線
し過ぎ。で、喉の不調は熊野三山詣の際購入した「黒あめ那智黒」を舐めて癒しています。
“哀しみ本線”だけに話が脱線…「哀しみ本線日本海 どこ」とネットで検索すると
こちらの記事に、(“哀しみ本線”は)“羽越本線が該当”とあり、“その中でも日本海
沿岸を通過するポイントが2か所あります。大まかにいうと、第1は村上駅から三瀬駅
までの区間。第2は、吹浦駅から桂根駅までの区間です。”と解説されている…吹浦駅
なら〝火打石〟夫婦が目指している方じゃん。でもまぁ記事は“ただ、どちらかと
いうと東京から行きやすい場所は第1区間ですので、こちらが正解だと思います。”と
続くのですが。確かに東京からなら新潟県村上市にある村上駅の方が行き易いわけ
ですが、いいの、この時の〝火打石〟は森昌子さんの名曲の舞台を眺めているという
ことで。
鳥海山大物忌神社 吹浦口の宮に到着。
二ノ鳥居を潜って下拝殿へ…
話を“本線”の参詣記に戻して…鳥海山大物忌神社さんの御祭神、御由緒については
こちらをどうぞ。(景行天皇はウィキペディア「景行天皇」に拠ると“日本武尊
(ヤマトタケル)の父”で、“考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王
と推定されるが、定かではない。”とのこと。) 御祭神に「月山神(月読命)」と
ありますが、遊佐町のこちらの記事には吹浦口の宮の紹介で、“平安時代中期より
大物忌神と月山神を祀る海辺の里宮”、“吹浦口ノ宮は、古代から鳥海山の神「大物忌
神」と月山の神「月山神」を主祭神としてきたため「両所宮」とも呼ばれて
きました。”と記しています。前日の8/15に山形市の「両所宮」さんをお詣りした
〝火打石〟夫婦ですが、山形市の「両所宮」さんは“社伝では、源頼義が安倍貞任討伐
にあたって飽海郡吹浦の鳥海山両所神社で鳥海・月山の両神に戦勝を祈願し、勝利
したので、康平6年(1063年)、その報賽として最上郷山形に社殿を造営して分霊を
勧請し、国家泰平・武門吉事の神と称したのに始まると伝える。”とウィキペディア
「鳥海月山両所宮」に記されています。“飽海郡吹浦の鳥海山両所神社”=吹浦口の宮
ということですね。月山山頂の月山神社さんは残念ながら今回の出羽国旅行では参詣
できなかった〝火打石〟夫婦ですが、「両所宮」さんは参詣したので月山神さまを
お詣りしたということはできるでしょうか?。
ウィキペディア「月山神社」の「祭神」の項には、“なお、月山の縁年は卯年とされ、卯年に
参拝するとご利益が上がると言われている。”とありますが(こちらもお読みになってください
<(_ _)>)、山頂の本宮はお詣りできなかったとはいえ、翌17日には出羽神社(三神合祭殿)
をお詣りしているので、月山神社さんを卯年に参拝したと言ってしまっても良いのかな??…
この先の参詣記でも書くことになるでしょうが、やはり今回の出羽国旅行では「出羽三山」の
寺社めぐりは極められなかった。鳥海山も登れなかったし、これはもう一度出羽国を訪れ
なければ。
「月山神」の「月読命」についてはウィキペディア「月山神社」の「祭神」に、“神仏習合に
より月山神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになったが、八幡神の本地仏である
阿弥陀如来が、月読命になぞらえられた月山神の本地仏となったのは東北的な特性であると
言え、浄土教の浸透が阿弥陀如来信仰を月山に導いたと思われる。室町時代まで月山の神は
八幡大菩薩とされていた。”とあります(「月読命」についてはウィキペディア「ツクヨミ」等
を参照されたし。神仏習合での神仏の対比についてはこちら等を参照のこと)。
社務所に掲げられていた「日本最北の一之宮」…これは「令制国」の「出羽国」と
「陸奥国」で、「出羽国」の一之宮である鳥海山大物忌神社さんが「陸奥国」の
一之宮の都々古別神社さん・鹽竈神社さんより北に鎮座する、ということを言って
いるのだろうな(ウィキペディア「令制国一覧」参照)…現在の「全国の一の宮」
では最北ではなくなってしまうのだけど。
さらに石段を上って拝殿を参拝します。
北畠顕信公についてはこちら。
鳥海山大物忌神社さんには「北鼻顯信寄進状」(国指定文化財)が伝わっています
(こちら)。ウィキペディア「北畠顕信」(「生涯」)には、“正平13年/延文3年
(1358年)足利尊氏が没すると南朝の活動が全国的に活発になるが、顕信は同年8月
鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書を納めている事から、
この時期出羽にいたと思われる。”とあります。
下拝殿から拝殿へ、結構キツイ石段でしたが日頃の鍛錬(?)の賜物で上り切れた…
石段を上り切ると☝のようにお社が建ち並んでいます。またまた記事が長くなって
しまったので写真は次回にUP…ここのところ1回で参詣記が書き上がらなく
なってしまっていますが御容赦をm(__)m。(「哀しみ本線」に脱線し過ぎたよう
です。) よろしくお願い申し上げます。