2023年の10月前半は不覚にもCOVID-19に乗っ取られてしまった〝火打石〟
。
せっかくの夫の3連休(7・8・9日)もパァ…とはいえその間に普段読めなかった本を
読み上げたり、夫は夫で好きな庭仕事を進められたりで、まぁ悪いことばかりでは
なかった(と思いたい…)
。おかげさまで現在は気管に多少痛みがあり、時折咳が
出る程度にまで回復していますが、これからの季節、本当に油断は禁物だなぁ
。
さりとて家の中でじっとしていられる性質ではない〝火打石〟、体調と相談しながら
趣味の寺社めぐり&美術展鑑賞を復活させるか
。ともあれ今日は出羽国の参詣記を
書こう…今回は山形県護国神社さん(ウィキペディアはこちら)の参詣記です。
狛犬さんの前に掲示されているのは「平和のご献灯」のポスター…〝火打石〟夫婦が
「護国神社」さんをお詣りするのは大抵年末年始の休暇かお盆の休暇中…一の宮
(こちら参照)の参拝と併せてという場合が多い。今回も出羽國一の宮 鳥海山
大物忌神社さん(こちら)の参詣に併せての参拝だったわけですが、ちょうど「終戦
の日」にお詣りすることに。
逆光になってしまって申し訳ない…大きくて立派な、勇猛で威厳のある狛犬さんです
が、この狛犬さんは平成29(2017)年に奉納されたそうで(山形県神社庁のこちらの
ページをお読みください<(_ _)>)。“新しい狛犬は青銅製の山形鋳物で作られ高さ
210センチ。青銅製では日本一の大きさを誇る”とのこと。(山形県護国神社さんの
「神社概要」のページもご覧になってください<(_ _)>。)
とても広い山形県護国神社さんの境内…これまで参拝した護国神社さんで一番広い
境内だと思う。
山形県護国神社さんの御由緒についてはこちらをどうぞ。ウィキペディア「山形県
護国神社」(こちら)の「歴史」には
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために
山形市八日町に社殿を造営したのに始まる。明治8年に山形招魂社となり、
以降山形県関係の戦没者を合祀した。明治22年(1889年)山形市宮町に
遷座し、明治44年(1911年)の山形市北大火の災厄で社殿焼失の憂き目に
遭ったが、大正3年(1914年)に再建された。昭和9年(1934年)千歳
公園内の現在地に遷座した。昭和14年(1939年)の制度改革により内務
大臣指定護国神社となり、山形県護国神社と称した。GHQ占領下の昭和
22年(1947年)から昭和27年(1952年)においては所在地の千歳公園に
因んで「千歳宮」と称していた。現在の拝殿は平成6年(1994年)に改築
されたものである。
とあります。
「8月15日、英霊感謝祭を斎行いたしました。」と山形県護国神社さんの
「お知らせ」のページ(こちら)にあります。私たちが参拝した時はもう感謝祭は
終わっていましたが…
「平和のご献灯」が並ぶ参道を進んで…
二礼二拍手一拝…山形県護国神社さんの御祭神は、“戊辰戦争以降、戦争で亡くなられ
た山形県出身のご英霊40,845柱をお祀りしております。”とのことですが、こうして
「ご英霊」の前で掌を合わせるのは、靖國神社さんの参拝も含めてこれで何度目
か?。何万柱の「ご英霊」に掌を合わせてきたか…
山形県護国神社さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。
今日(10/17)、この参詣記を書きながら、「岸田首相 靖国神社 秋の例大祭にあわせ
「真榊」奉納」のニュース(こちら)を目にしました。そうだ、10月17日は靖國神社
さんの秋の例大祭が始まる日だった…(こちら参照)。総理大臣や閣僚の靖國神社
さんの参拝、真榊奉納は外交的な問題とされてしまいがちですが、それはそれとして
「英霊」の「御霊(みたま)」に思いを馳せることは大事なのではと〝火打石〟は
思う。これまで27地方の護国神社さん(こちら参照)を参拝した〝火打石〟ですが、
いつもいつも考えさせられる…そして今、ウクライナやガザの戦闘の、光が見えない
状況に胸が重くなる。〝火打石〟のような人間が何をどれだけ考えようとどうにも
ならないのですが、それでも私は考える。どうすれば善いのか、私にできることは
何かと。こうしてブログを書くことも、“〝火打石〟にできること”の一つであるわけ
で…正直参詣記を書くのも怠いなぁとボヤくこともあるのですが、書き続けることで
見えてくるものがあるかもしれないと、細々ながら拙い文章を書き散らしております
ので、よろしければこれからも「〝火打石〟の参詣記」におつきあいくださいます
ようお願い申し上げます<(_ _)>。















