八月一日、大宮の氷川神社さんで例祭が斎行された(こちら参照)…武蔵一宮の氷川
神社さんは勅祭社(こちら参照 ウィキ「勅祭社」も参照されたし)ですが、一日の
昼過ぎ、〝火打石〟がウォーキングの最中に氷川神社さんをお詣りすると、参道脇で
勅使と思われる方々が神職の方とお話しされていました。週一回、自宅から大宮駅
前を経て氷川神社さんをお詣りするのが〝火打石〟のウォーキングなのですが(往復
でだいたい10㎞弱のコース)、昨年も8/1に同じようにお詣りしましたがこんな場面
は目にしなかったなぁ。大宮の街もお祭りで平日ながら盛り上がっていましたが、
そうか、昨年はコロナで行動規制が掛かっていたんだった…今年は行動制限が無い
から本来のお祭りの姿に戻ったのかな?。さいたま市民になって3年目の〝火打石〟
ですが、ようやくこの街にも馴染んできたような。それにしてもさいたまは暑い。
静岡で暮らしていた頃は海の風を常に感じていましたが、内陸県の埼玉は夏は暑く
冬は寒い。静岡時代は自宅から静岡駅まで自転車で出て、駅から静岡浅間神社さん
をお詣りして石段100段を昇り降りするというメニューを組んでいましたが、関東
の平野部のさいたま市では100段の石段を持つ神社さんは(少なくとも自宅近く
には)無い…なので商業施設の階段をウォーキング中に昇降するのですが、この夏は
もう熱中症との戦い。一日はなんとかメニューを熟せましたがもう限界かなぁ。
無理をして倒れては医療機関にも迷惑をかけるし、ムキになって続けることもない、
酷暑中はちょいとお休みとしようかな…ブログを書くペースも落ちていますが酷暑
に免じて御容赦をm(__)m。3ヶ月前の5/4、盛岡市での寺社めぐりの参詣記をUPして
いますが今回は盛岡市鉈屋町にある天台宗のお寺、千手院さんの参詣記となります。
千手院さんの御縁起については「猫の足あと」さんのこちらの記事や、「くぐる鳥居
は鬼ばかり」さんのこちらの記事をお読みくださいm(__)m。☝の縁起を読むと、
開山は寛智円秀法印…ネットで「寛智円秀」を検索すると「猫の足あと」さん、
「くぐる鳥居は鬼ばかり」さんの記事がヒットするのです。南部行信公に依る建立
は元禄十年(「元禄年間」は“1688年から1704年まで”←ウィキペディア「元禄」
参照)。ウィキペディア「南部行信」を読むと行信公は藩主として凶作に拠る飢饉に
とても苦しめられたようですね。(“このため、行信は次第に藩政に対する関心を
失った。儒教に盲信の域まで傾倒し”という記述もある…) 堂宇の建立も、その
苦しみから救われたかったからなのでしょうか?。
「野田塩ベコの道」についてはこちらの記事等をどうぞ。「撫牛こさん」については
こちらの記事をどうぞ。「撫牛こさん」はこちらの記事を拝読させていただくと、
本堂内に安置されているようですね…私たちは本堂には上がらなかったのでお姿を
目にすることはできませんでした。
境内には牡丹の花が見事に咲いていました。
愛宕山太郎坊薩埵さま(こちら参照)のお札を夫は拝受していました。千手院さん
は「盛岡三十三観音」(こちらをどうぞ)の第五番の札所なんですね。“次ハ大慈寺
ヘ”とありますが、ごめんなさい、私たちは三十三観音巡礼をしていたわけではない
ので大慈寺さん(ウィキペディアはこちら こちらもどうぞ)はお詣りしなかったの
ですが…この記事を書くのに大慈寺さんについてネットで調べてみると、大慈寺
さんは黄檗宗のお寺さんで第19代内閣総理大臣・原敬の墓所だそうですね。黄檗宗の
お寺さんはあまりお詣りしていないし、〝火打石〟は「平民宰相」を尊敬(という
のは大袈裟なのですが)しているので、お詣りしなかったのは失敗だったなぁ。
☝こちらの木札には「盛岡三十三観音 第卅番 阿彌陀堂」とありますね。五番札所
と兼務ということなのでしょう。「ニッポンの霊場」の「盛岡三十三観音霊場」
には“5番札所兼務、旧札所の阿弥陀堂は廃寺”とあります。
千手院さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。
夫は元三大師(角大師)さまのお札と愛宕山太郎坊薩埵さまを拝受していました。
太郎坊さまのお札に「盛岡寺ノ下千手院」とありますが、「盛岡 寺ノ下」で検索
すると「岩手県盛岡市大慈寺地区鉈屋町界隈の紹介」という記事がある…旅先で参詣
する寺社は、基本夫がセレクトするので後から〝火打石〟が「こちらもお詣りした
かった」、「この街並みを歩いてみたかった」などとブログを書きながら思う
こともしばしば。まぁそれは仕方の無いことなのですが、今回も「鉈屋町界隈」を
ゆっくり巡ってみたかったな、という念が兆す…貧乏性故慌ただしい寺社めぐり
ばかりしている身が悲しい。それでも旅してお詣りができるだけ幸せと思わねば
3年ぶりに行動規制の無いお盆休みとなりますが、台風6号の影響も心配。どうか
大きな災害が起きぬよう、神仏に祈るばかりです。