今回でようやく熊野三山詣の参詣記も書きあげられそう
…約三ヶ月後に書きあげ
られる参詣記
。季節も冬から春へ、新年度も始まり心機一転
とはいかない我が身
が悲しいですが―この春はとりわけ花粉症と思しき症状が酷い…これまではこれほど
苦しめられることは無かったのに
―気を取り直して熊野那智大社さんの参詣記を。
1月6日は田辺市の熊野本宮大社さんからお詣りをスタートして、新宮市の熊野速玉
大社さん(こちら)、神倉神社さん(熊野速玉大社さん摂社)、那智勝浦町に出て
熊野那智大社さんの別宮の飛瀧神社さん、熊野那智大社さんに隣接する西国三十三所
の第一番札所の青岸渡寺さんを参詣していよいよ“三山”最後のお詣りとなる熊野那智
大社さんへ
。
(この図は熊野那智大社さんのホームページの「社殿案内」からお借りしました。)
私達夫婦は駐車場に車を停めて飛瀧神社さんを参拝、那智御瀧を拝観し、裏参道を
通って三重塔を拝し青岸渡寺さんを参拝、そして熊野那智大社さんをお詣りしたわけ
ですが、☝の絵地図を見て解るように、那智大社さんと青岸渡寺さんはほとんど
一体…☟の写真を見ても
扁額には「那智山 熊墅権現」とあります(扁額の文字の字体は篆書体のようですね…)。
“権現”(こちらもどうぞ)は仏教の側の用語ですから、ここからも熊野那智大社さん
と青岸渡寺さんが「習合」(「神仏習合」)していたことが窺われます。
礼殿(「社殿案内」参照)で参拝。
熊野那智大社さんの主祭神は“熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノ
ミコト)”さま。「礼殿」の解説(こちら)には、“他の二山と違い、御瀧の神様を
併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。元々は御瀧の近くで祀られて
いましたが、約1,700年前に現在の場所に遷りました。”とありますが、“約1,700年前
に現在の場所に遷りました。”って、それなら熊野那智大社さんの“元々”って何時の
ことなの
。神社さんの御創建の年代については正直調べてみてもよくわからない時
も多いのですが、〝火打石〟はこちらの記事を参照させていただいています(こちら
の年表も参考になります)。
「礼殿」の解説に、“他の二山(※熊野本宮大社さんと熊野速玉大社さん)と違い”と
ありますが、これについてはウィキペディアの「熊野三山」や「熊野権現」等を参照
なさってください。御由緒については那智大社さんのホームページの「御由緒」も
お読みになってください<(_ _)>。
御祭神をお祀りする御社殿については「社殿案内」の「御本殿」の解説をお読みください<(_ _)>。
☝☟御社の写真と「御祭神」「御由緒」は参拝の栞から引用させていただきました。
賀茂建角身命さまをお祀りされる御縣彦社(こちらのページもどうぞ)。サッカーが
お好きな方はぜひ一度ご参拝を
。
「烏石」は御本殿の内庭に鎮座されます(こちら参照)。
写真が暗くて申し訳ございませんm(__)m。大鳥居から熊野の山々を見晴らします。
「熊野那智大社」の神額が掲げられています。
表参道の石段を降っていきます。
扁額には「那智山」とあります。
仁王門には狛犬さんも…
実方院跡を右手に眺め、表参道から駐車場に戻りました。
熊野那智大社さんで拝受した御朱印です。御縣彦社の御朱印も授与して頂きました![]()
夫は烏牛王神符を拝受していました
。(御朱印、授与品についてはこちらをどうぞ。)
(「熊野九十九王子」についてはこちらをどうぞ。ウィキペディア「九十九王子」も参照されたし。)
参拝の栞を引用させていただききましたが、叶うことなら〝火打石〟も往時のように
徒歩で熊野詣を楽しみたかった…“熊野には自然を畏敬した古代山岳信仰が始まり、
仏教の伝来により密教思想が山岳信仰と合致し、神仏習合の世界が開け永くその伝統
が続いたものであります。”と参拝の栞には記されていますが、ウィキペディア
「熊野那智大社」(「歴史」の“近世以降”)には
近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があったが、明治時代になり神仏習合
が廃されると、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、当社
では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却は
しなかった。
1873年(明治6年)に県社に指定されると共に那智神社と称し、さらに熊野夫須美
神社と改称した。翌1874年(明治7年)には如意輪堂が青岸渡寺として当社から
独立した。
1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称する。
とある…本宮大社さんと速玉大社さんでは“仏堂は全て廃され”廃されてしまったのね
。嗚呼![]()
![]()
…ウィキペディア「青岸渡寺」(「歴史」)には
中世から近世にかけて隣接する熊野那智大社と一体化し、那智山熊野権現や那智
権現と呼ばれ、全体で7寺36坊もの坊舎を有する神仏習合の修験道場であった。
如意輪堂と称されたその堂舎は那智執行に代表される社家や那智一山の造営・
修造を担う本願などの拠点であった。
明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野
速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂は有名な西国
三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はせずにしておいた。ただ、
しかし、1874年(明治7年)に古くからの信者らによって熊野那智大社から天台宗
の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興した。(後略)
とありますが、このブログですでに何度も主張させていただいているように、日本の
歴史では神仏が「習合」していた時代の方が「分離」している時代より遥かに永い
のよ(ウィキペディア「神仏習合」「神仏分離」も参照されたし)
。昨夏富山県の
立山を登山し、雄山神社さんを参詣させていただきましたが、あの折も“仏教界のみ
ならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた。”ことを痛切に
実感してとても悲しかった
。〝火打石〟自身は信仰を持つ者ではありませんが、
永い伝統文化が衰退した有様を目にするのは悲しい…熊野三山を詣でて、これからも
ずっと、清らかで美しい“密教思想と山岳信仰が合致した神仏習合の世界”が続いて
いくことを願って已みません
。
~ 追 記 ~
明治の廃仏毀釈の折、「青岸渡寺」さんから仏像や仏具を移されたという補陀落山寺
さん(こちらもどうぞ)も、今回の熊野詣に併せてできればお詣りしたかったのです
が残念ながらそれは叶わず![]()
![]()
。“補陀洛山寺は補陀落渡海信仰で知られた
寺院”とこちらに記されていますが(ウィキペディア「補陀落渡海」参照 こちらも
お読みくださいm(__)m)、参詣は次の機会を待とう
…次回は三重県から熊野に
入るコースを辿ろうかな?。芦雪の虎の襖絵で有名な串本町の無量寺さんもお詣り
したいし
…和歌山県は高野山参詣もあるし、あと2回はお邪魔したいかな
、なんて
脳味噌が春爛漫になってきてしまった〝火打石〟なのでした
。














































