「近津三社」の“中宮”にあたるとされる八槻都々古別神社さん(こちらもどうぞ)
ですが、☝の写真にもあるように「奥州一宮」と紹介されています。全国一の宮会編
の『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』(こちら参照)では八槻都々古別神社
さんは“陸奥国一の宮”となっています…って、次にお詣りした馬場都々古別神社さん
は“陸奥一宮”って棚倉町の公式HPで紹介されている(こちら)
…“奥州”と“陸奥”、
ウィキペディアの「陸奥国」には陸奥国の別称が「奥州 陸州」と記されています
から、「奥州一宮」も「陸奥一宮」も「陸奥国一宮」と考えて良いのでしょうが、
その「陸奥国一宮」は『全国一の宮めぐり』では八槻と馬場の都々古別神社さんの
他に、福島県石川郡石川町の石都々古和気神社さんと宮城県塩竈市の鹽竈神社さんが
挙げられている…ウィキの「陸奥国」には
陸奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の
明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を
参照。
とありますが、「陸奥国(1869-)」の「沿革」には
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に
対する処分が行われた。同日、布告により従前の陸奥国(むつのくに)は、陸奥国
(りくおうのくに)・陸中国(りくちゅうのくに)・陸前国(りくぜんのくに)・
岩代国(いわしろのくに)・磐城国(いわきのくに)の5つに分割された。
と記されていて…『全国一の宮めぐり』は東北地方を“岩代(福島県) 陸奥(福島・
宮城県) 出羽(山形県) 陸中(岩手県) 津軽(青森県)”としていますが(秋田
県は“出羽国”に含まれるということですね?)、「旧国名」の変遷を踏まえれば
八槻と馬場の都々古別神社さんと石都々古和気神社さんは磐城国の一の宮、
鹽竈神社さんは陸前国の一の宮と言った方が判りやすいんじゃないかなぁと勝手に
〝火打石〟は考えています
。(旧国名と都道府県名の対照はこちらを参照なさって
ください。) 「一の宮巡拝会」の「全国一の宮」の一覧では旧国名について触れて
いませんね…まぁ「陸奥国一宮」についてここであれこれ考えても仕方がないので
八槻都々古別神社さんの参詣記に戻ることにして
「由緒」の掲示が反射で読めなくなってしまっていて申し訳ございませんm(__)m。
「由来と沿革」については、棚倉町公式ホームページの「町まるごと博物館」の
「八槻都々古別神社」のページをお読みください。「町まるごと博物館」の解説には
八槻都々古別神社さんの宮司宅だった「八槻家住宅」の紹介もあるのですが(残念
ながら〝火打石〟夫婦は八槻家住宅は訪れませんでしたが
)、かつて“八槻家は、
八槻都々古別神社の官司を務めるだけでなく、室町時代中期より修験道(しゅげん
どう)との密接な関係をもつようになり、明治時代初期の神仏分離(しんぶつ
ぶんり)までは大善院と呼ばれた熊野参詣(くまのさんけい)の先達(せんだつ)職
を務める家でもありました。”とのこと。越中国一宮の雄山神社さんも修験道と関わり
の深い神社さんだったとのことでしたが(ウィキペディア「雄山神社」“概要”
参照)、“奥州一宮”も神仏習合の色の濃い神社さんだったんですね…
八槻都々古別神社さんの御田植祭は国の重要無形民俗文化財に指定されています
(こちら)。
棚倉町の観光案内図で馬場都々古別神社さんの位置も確認
。
“八槻都々古別神社は平安時代に編纂された『延喜式神名帳』にも記載され、奥州一宮
として崇敬されてきた古社です。本殿は、正徳元年(1711)に焼失した後に、享保
年間(1716~36)に再建されたとみられています。
形式は基本的に三間社流造(さんげんしゃながれづくり)を基調としながらも、
奥行きを通例より長くとるといった独創性が見られ、彫刻などの細部装飾も
華やかなつくりで、再建当初の姿をとどめています。福島県内の本殿建築の中でも
江戸時代中期を代表する本殿建築です。 (県指定重要文化財)” (☜棚倉町公式
ホームページ(こちら)より)
八槻都々古別神社さんで拝受した御朱印はこちら☟。「全国一の宮御朱印帳」にも
授与していただいて、“東北地方の一の宮参詣”の第一歩となりました![]()
![]()
。
続いて「近津三社」の“上宮”、馬場都々古別神社さんを参詣…事前の情報で、馬場
都々古別神社さんの御朱印を拝受するには電話で予約を取った方が良いとのこと
でしたので、移動の車中でお電話し、いざいざ詣でむ…次回参詣記をUPいたしますね
。






















