明後日は雛祭りだというのに桃の花に浮かれる気分にもなれない〝火打石〟ショボーン。前回の

 

記事でも嘆かせていただきましたがロシアのウクライナ侵攻に胸が塞がる毎日…救いは

 

ロシア国内からも反戦の動きが出ているということ。実際のところは知る由もないにせよ、

 

とにかくプーチン大統領支持一色ではないようなのは嬉しい。とはいえこの事態をどう打開

 

すれば良いのか?…核を持つ国の最高権力者の意思を覆すにはどうすれば良いのか…

 

どなたか賢い方、この事態を救う有効な手段を考えてくださいm(__)m。〝火打石〟はこれから

 

大宮の氷川神社さんをお詣りして、ウクライナの人々ために祈って参ります。 

 

 

 

*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 

 

 

Володя(ヴォロージャ=ウラジミールの愛妾・略称形)のせいで鬱気味な〝火打石〟の近況は

 

さておき、ブログは京の一人旅の次第をUPあせる…1/7、“嵯峨野めぐりの始発点”、愛宕念仏寺

 

さんからお寺めぐりを始めて化野念仏寺さん、祇王寺さん、滝口寺さんとお詣りし、さて、この

 

後はどうしようか?…予定では二尊院さんや常寂光寺さんをお詣りしようかと考えていたの

 

ですが、午後に嵐山の美術館に入るのに時間的にも体力気力的にもちょっとキビシクなって

 

きたショボーン。以前の〝火打石〟ならここで無理をして当初の計画を遂行しようとしましたが、

 

現在はもう無理が利かないえーん。今日はもうこのまま嵐山へ向かうか…でも目の前に檀林寺

 

さん(ウィキペディアはこちら こちらもどうぞ)がある目。こちらをお詣りして美術館に向かおう

 

と思い直しましたあせる

 

 

 

 

 

祇王寺さんと滝口寺さんと檀林寺さんの位置関係。☝の写真の正面奥が祇王寺さん、奥の

 

向かって左に滝口寺さんがあり、写真手前の門が檀林寺さんの門になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「禅傳来本朝最初發祥之遺蹟 法寳閣 檀林寺」と刻まれた大きな石標があります。

 

 

  ☜残念ながらこれはちょっと読めなかった汗

 

 

 

門の扁額には  とありますね。

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

この記事を書くにあたっていつものようにネット等でさっくり檀林寺さんについて調べてみたの

 

ですが(参詣するお寺さんについて、“予習”はあまりしない〝火打石〟。ブログを書く際

 

“復習”をします汗。)、現在の檀林寺さんは“昭和39年(1964年)に壇林皇后の遺徳を偲んで

 

再興したとされる。”、“平安期の檀林寺とは直接関係がない”。とウィキペディアにあります。

 

“霊宝館には、「皇后ゆかりの品」をはじめ、日本、中国の仏教美術の数々が納められて

 

いる。実質的には骨董屋であり、寺としては機能していない。”ともガーンこちらのブログにも

 

そのようなことが記されているのですが、楽しく一人旅している中で縁あった所ということで、

 

現在の檀林寺さんが仮にウィキの言うとおり、“実質的には骨董屋であり、寺としては機能して

 

いない” 「お寺さん」であっても別に構わないや、〝火打石〟はあせる。そんなことより今回の

 

参詣で、檀林皇后(こちら)や「帷子ノ辻」について知識が得られたことが〝火打石〟には

 

有り難い照れ…  

 

 

※“平安期の檀林寺”についてはコトバンクの「檀林寺」のページやこちらの記事等を参照なさってくださいm(__)m。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

☟境内を散策ニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

☝檀林寺さんの“参拝の栞”&拝観券。「山城国一ノ寺」という表記が気になる汗…ネットで

 

検索してみるとこちらのブログに、“壇林皇后が創建した禅寺は「山城国一之寺」と呼ばれ、

 

天龍寺一帯に寺域を占めていたと考えられています。しかし、当時の日本では禅宗が普及

 

せず、開山の義空は失意のうちに帰国したそうです。”とありました。平安貴族には禅の思想

 

は受け入れられなかったのねショボーン… 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊宝館は撮影禁止…拝観していて〝火打石〟の目に留まったのは文覚上人の名が記された

 

キャプション目。伊豆に流されていた源頼朝公に打倒平家の挙兵を蹶起させた怪僧とも

 

言われる文覚上人ですが、ウィキペディアには“『源平盛衰記』は、出家の原因は、従兄弟で

 

同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前wikidata)に横恋慕し、誤って殺してしまった

 

ことにあるとする”とある…袈裟御前の悲劇は創作とされますが、これもまた『平家物語』の

 

世界に連なる話で、檀林寺さんでもまた『平家』の世界を垣間見させられるとはびっくり。帰宅

 

したらネットで調べてみよう汗…と思ってあれこれ検索してみたのですが、どうも当たりが

 

付かないなぁドクロこちらのブログで“平安末期に盛遠が檀林寺で祈ったという話が噴飯もの

 

なのだ。”(※「盛遠」は文覚上人の俗名)という記述を見つけたくらいではてなマークはてなマークはてなマーク。残念汗

 

 

 ※文覚上人と檀林寺さんの関係はさておき、夫の身代わりに殺されてしまった袈裟御前の悲劇については、

 前回の記事でも紹介した大塚ひかりさんの『男は美人の嘘が好き』の「横笛と袈裟御前―ワイドショーの犠牲者

 たち」の章で描かれています。この本を読むと、横笛を捨てた滝口入道も、袈裟御前に横恋慕した文覚上人も、

 まったくトンデモな男に見えてしまうんですよね…仏教側から見れば袈裟御前は盛遠を仏道に導いた聖女で

 しょうが、それってずいぶん身勝手じゃんムキー。女の言い分には耳を貸さないのねショボーン… (袈裟御前については

 コトバンク「袈裟御前」等をどうぞ。こちらも参照なさってくださいm(__)m。)

 

 

 

 

檀林寺さんで拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。和紙に書き置きされています。

 

 

 

 

 

 

平安時代初期に檀林寺さんを創建された檀林皇后は大変美しい方で、僧侶も懸想するほど

 

だったとか。皇后には“仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救う

 

ため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行

 

無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こす

 

ために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体

 

が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。または、その遺体の変化の過程

 

を絵師に描かせたという伝説がある。”(ウィキペディアより)そうですが、東山区松原通大和

 

大路東入二丁目轆轤町にある西福寺さんは、辻にうち捨てられた檀林皇后の遺体が朽ちて

 

いく様を描いた「檀林皇后九相図」を所蔵されているそうです(こちら等参照  「九相図」に

 

ついてはこちら)。東山区松原通といえば、「愛宕念仏寺元地」のある所(こちら参照)ですね。

 

西福寺さんもお詣りして、「檀林皇后九相図」を拝観できたらなぁあせる。西福寺さんの近くには

 

空也上人開山の六波羅蜜寺さんや、小野篁の冥府通いの伝説で知られる六道珍皇寺さん

 

があるそうですが、もちろんそちらもお詣りしたいメラメラ。(近日「空也上人と六波羅蜜寺」展を

 

観に行く予定あせる。)

 

 

それにしても…「九相図」ってなんかネクロフィリアの臭いがするのよね汗。それで思い出したのですが、平成28年の霜月にお詣りした愛知県岡崎市にある胎蔵寺さんにもネクロフィリアっぽい伝説(こちら)が伝わっている(胎蔵寺さんの参詣記はこちら)…胎蔵寺さんの御朱印にも「准胝佛母」(ウィキペディア「准胝観音」参照 こちらもどうぞ)と墨書きされていますが、ネクロフィリア臭(失礼汗)のする「九相図」に描かれた檀林皇后所縁のお寺さんと、愛する女の亡骸の口を吸い、その死臭で世を儚み出家した男が開いた庵を草創とするお寺さんの御朱印に「准胝佛母」の墨書き…これって単なる偶然なんでしょうかはてなマーク。☜まぁ、こんなこと妄想してるのは〝火打石〟くらいでしょうが汗

 

 

 

 

奥嵯峨で五つのお寺さんをお詣りして、その後無事嵐山で「おうこくさん」を鑑賞できた〝火打

 

石〟ニコニコ。最後のミッションの家族へのお土産も購入して、よろよろと武蔵国へ帰る汗…静岡

 

在住時は新幹線で静岡駅に戻れば後は自転車で帰宅するだけでしたが、さいたま在住の今

 

は東京駅に着いてもそこからまた大宮、そして地元の駅へえーん。嗚呼、私はもう東海道新幹線

 

のエリアの人ではなくなったのね叫び。これからは東北新幹線の人だわ…大宮駅に戻って、

 

これからは東北地方でも寺社めぐりを楽しもうと思った〝火打石〟なのでしたあせる