「日露和親条約調印の地」、長楽寺さんでお吉観音を拝観できなかった〝火打石〟でしたが
次にお詣りした下田市一丁目の宝福寺さん(下田市観光協会のページはこちら こちらの
ページもどうぞ)では「唐人お吉(こちらも)」のお墓と記念館を拝観することができました。
「龍馬が飛び お吉が眠る」…龍馬ファンの方には申し訳ないのですが、〝火打石〟は“幕末
の志士” 坂本龍馬には関心がありません。(龍馬の師匠とされる勝海舟の方が好き。)
なので門前の龍馬の像にも記念館の展示にも特に何も感じなかった…
“龍馬が飛び”というのは龍馬が土佐藩の脱藩を許されたことを指すのかな?。(こちら参照
お寺さんの歴史についてはこちら)
「下田歴史の散歩道」のポイント№2と看板にありますが、10ヶ所のポイントのうち5ヶ所が
お寺さんなんですね。7/4は了仙寺さん、長楽寺さん、宝福寺さんの三寺しかお詣り
できませんでしたが、残る二寺、稲田寺さんと泰平寺さんのお詣りは後日のお楽しみという
ことで…
扁額に「八幡山」とあります。宝福寺さんのお隣には下田八幡神社さんが鎮座されています。
御朱印の授与は唐人お吉記念館にて授与とのことで、記念館へ…
記念館の入り口に居た猫ちゃん。お寺さんと猫はよく似合う。
☝のキャプションではお吉は“ハリス領事の愛人”と書かれていますが、ウィキペディア「斎藤
きち」(こちら)を読むと、どうもそうとは言い切れないような記述が…「フィクションの混入」の
“「看護人」か「妾」か”の項には
アメリカ側を籠絡して条約締結交渉を引き延ばしたかった日本側の思惑はさておき、ハリスは
生涯妻帯しなかった敬虔な聖公会教徒であった上に、生命が危ぶまれるほどの著しい体調
不良に悩まされてもいた。そうした状況下で母国を代表し、日米和親条約の締結で部分的に
開国していたとはいえ、未だ鎖国政策を敷いていた日本との通商条約締結交渉の全権を
委任されるという重責を担う立場の人間が、交渉相手国から妾を提供されるような外交交渉
に悪影響を与えかねない供応を受けるとは常識的には考えにくい。
自らはハリスの秘書兼通訳の立場にすぎず、あからさまに「女性の看護人」を要求した
ヒュースケンはともかく、こうした状況からハリスは妾ではなく純然たる看護人を要求したと
判断することもできるが、ハリスと「きち」との男女関係の有無を証明する証拠が存在しない
限りさまざまな説は想像の域を出ず、詳細は不詳である。
とありますが、そもそも“元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの
経歴については、出生地を含め諸説あり、資料が少ない上に、後年の小説・戯曲・映画等で
表現されたことさらに薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵や八百屋
お七の例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる
経歴の正誤を一概に断定する事は困難”(←ウィキペディアより)なのでしょう。有名な
☝の写真もウィキペディアには、“写真の女性モデルが「きち」であると断定はおろか、推定
できる具体的かつ客観的な根拠が何一つ存在せず、むしろ上記のように否定的な状況証拠
が複数存在している。”とありますし… (「19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと
称されている写真」の“はたして「きち」か”参照) 真実は歴史の闇の彼方というわけですが、
開国という荒波が一人の女性の一生を狂わせてしまったということは間違いないでしょう。
フィクションでさまざまに描かれる己の姿を彼岸のお吉さんはどうご覧になるのでしょうか?。
(「唐人お吉」については宝福寺さんのこちらのページや玉泉寺さんの「お吉物語の真実」の
ページをお読みになってくださいm(__)m。下田市のこちらのページもどうぞ。)
お吉さんが生まれたのは愛知県南知多町内海とのこと(こちら参照)。知多半島には半田市
にかみや美術館がある…現在かみや美術館では「シュルレアリスム版画展」が開催されて
いますが、ふじのくに基準では愛知県への訪問の際は“慎重に行動”…「訪問の際は訪問
地域の感染状況を把握し、訪問目的を十分に御検討ください。」とのこと(こちら参照)で、
美術展鑑賞や寺社めぐりといった己の楽しみのために訪問するのは躊躇われるなぁ。
三河や尾張へ気兼ねなく遊びに行ける日が早く来ると良いのに。
〝火打石〟は玉三郎さんのこの舞台観ていないんですよね。松井今朝子さんのホーム
ページ(こちら)で、“もう何十年も前のまだ若くて本当に美しかった頃でさえ「女人哀詞」の
主人公を明らかな汚れ役として演じた人だけに”と評されていますが、お吉さんを“明らかな
汚れ役として演じた”って、いったいどんなお吉さんだったんだろう…
「から竹の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」って、この歌、有吉佐和子の
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を連想させるなぁ…“攘夷のヒロイン”として祭り上げられた
花魁の亀遊。この戯曲も玉三郎さんは演じていらっしゃいますがそれも〝火打石〟は観て
いない。まぁそれは仕方ないのですがそれにしてもこの「から竹」の歌、新渡戸稲造作
なんですね。宝福寺さんのホームページには、“新渡戸は、幕末開港の陰に一輪の花と
咲いた薄命の佳人「唐人お吉」の大の同情論者の一人でした。”とあるのですが(こちら)、
う~ん、“同情”って…お吉さんの心は本当に“大和撫子”だったんでしょうか。
お吉さんのお墓をお詣りします。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。
宝福寺さんのホームページから引用させていただきましたが(こちら)、今も昔も世間て残酷
だなぁ…贔屓の玉三郎さんが演じた舞台で彼女のことを知った〝火打石〟ですが、
こうして“お吉さんの物語”の舞台を訪ねてみて、あれこれと考えてしまう…玉泉寺さんの
「お吉物語の真実」では、“物語ではお吉の生涯は、ハリスに長く仕え、この玉泉寺通いが
原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐えきれず、酒に溺れ、世間から孤立し、
貧困の中、身を持ち崩し五十歳でその生涯を閉じたストーリーとなっている。玉泉寺には五人
の女性が勤めたのだが、物語ではお吉だけが唐人と追い詰められ、他四人は世間から
追い詰められたとは一言も書いていない。世間という下田の人々は、お吉だけを狙い撃ちに
した不思議なお話なのです。” “物語でお吉を追い詰めていったのは、当時の下田の町人達
であり、よくこの物語を考えれば「いじめ」の話であって、下田市民としては恥ずかしい話
です。” と記されていますが、確かにお吉さんだけが「唐人お吉」と呼ばれ、悲劇のヒロイン
となったのは不思議なこと。もしかしたら“世間”は、不幸な亡くなり方をした―ウィキペディア
「斎藤きち」ではお吉さんは稲生沢川に転落して水死したと記述されています(自殺とは
書かれていない)―お吉さんに、開国の悲話のヒロインという夢を負わせたのかもしれない。
そしてその夢は実像に構わず語り継がれていく…現代でもこうしたことはありますよね?。
どこまでが史実でどこからがフィクションかはわかりませんが、いずれにしても歴史の荒波に
揉まれたお吉さんが安らかに眠れるようにと墓前で掌を合わせました。
記念館で拝受した御朱印はこちら☟(*^-^*)。
念願叶って「唐人お吉」を偲ぶことができた〝火打石〟、とはいえ雲行きも怪しいし、そろそろ
駿府に帰らないと…7/4の参詣記の〆は宝福寺さんのお隣の下田八幡神社さん。