5/14に緊急事態宣言が解除された静岡県。県内の移動については、“3密を避けるなど
「新しい生活様式」を徹底してください。”(こちら参照)とのことで、元々の生活様式が“新しい”
様式に近い〝火打石〟夫婦は、関所(県境)を越えない移動ならまぁ許されるのかな…
大井川を越えるけど、駿河国から遠江国へお出かけしても良いよね。という次第で17日の
日曜日、夫の運転で行ってまいりました遠江国。〝火打石〟が平野美術館(浜松市中区
元浜町)で「うるわしの美人画づくし」展を観ている間、夫は中区曳馬町の八坂神社さんと
福嚴寺さんをお詣りしてきました。
素盞嗚命さまをお祀りする八坂神社さん(こちら参照)。御由緒の詳細は江戸後期(コトバンク
「天保」参照)の火災で古文書等を焼失されて不明とのこと。“当神社の創建は室町時代
の文明十八年と伝へられている”と☝にありますが、文明18年は西暦1486年(ウィキペディア
「文明(日本)」参照)。応仁の乱が文明9年(1478年)に収束(ウィキペディア「応仁の乱」参照)
ですから、世の中が戦乱で乱れてきた時代の御創建と考えて良いのかな?。ウィキペディア
「応仁の乱」を読んでいくと、“地方の戦乱”の“越前・尾張・遠江”の項で
遠江では駿河守護今川義忠が東軍の命令を受けて文明5年から遠江へ侵攻していたが、
文明7年に甲斐敏光が東軍から守護代に任命されると大義名分を失い、文明8年に今川
義忠が戦死すると今川氏は後継者に嫡男龍王丸(後の今川氏親)と従弟の小鹿範満が
擁立されお家騒動が発生、遠江侵攻は中断された。
と解説があります。今川義忠公は義元公の祖父に当たるそうで、没年は文明8年(1476年←
ウィキ「今川義忠」参照)。八坂神社さんの御創建とされる文明18年(1486年)の頃は今川家は
家督争いで揉めていたようですね…先日JR静岡駅前で県内初の今川義元公の像を観て
きたため、つい今川家の歴史に目が行ってしまいました。
夫が参詣した折は神社の方はいらっしゃらなかったそうですが、夏の例祭には花火大会が
斎行されるようですね。(こちら参照) SARS-CoV-2の影響が心配ですが、今夏も斎行
されると良いですね。
八坂神社さんをお詣りして、続いて道を挟んでお隣の福嚴寺さんをお詣りします。
福嚴寺さんは曹洞宗のお寺さんで御本尊は阿弥陀如来さまと薬師如来さま(こちら参照)。
遠江四十九薬師第二十番札所でいらっしゃいます。(遠江四十九薬師霊場についてはこちら
のサイトを参照なさってくださいm(__)m。)
八坂神社さんに隣接して曹洞宗のお寺さんがある…ウィキペディア「今川氏親」の“人物”の
項を読むと
今川氏の歴代当主は臨済宗を重んじてきたが、氏親だけは曹洞宗を重んじてきた。これは
幼少時に小鹿範満に追われた時に龍王丸を保護した法永長者(長谷川政宣)が石雲院を
開いた崇芝性岱の門人・賢仲繁哲の庇護者で、氏親も賢仲や同門の辰応性寅を深く崇敬
して曹洞宗の保護に積極的であった。氏親は代々崇敬してきた臨済宗の善徳寺の保護にも
努めて同寺の住持を長く務めた黙堂寿昭が没すると、琴渓承舜を招いて息子の芳菊丸
(後の今川義元)を預けているが、氏親の葬儀で主な役割を務めた僧侶はほとんどが崇芝
性岱の流れを汲む僧侶であった。氏親の没後、後を継いだ氏輝と母の寿桂尼が琴渓承舜
の弟子である太原雪斎を顧問とし、続いて臨済宗の僧侶から還俗した義元が後を継いだ
ことで、再び臨済宗が重んじられるようになるが、曹洞宗の勢力も今川氏領国において無視
できないものとなっていた。
とあるのですが、この辺りも八坂神社さんの御創建と関わりがあるのかな?。文中に名前が
挙がる石雲院さんは静岡県牧之原市にあるお寺さんで(こちら参照)、富士山静岡空港が
すぐお隣にある…“富士山静岡空港ターミナルビル東側には、「石雲院展望デッキ」が建設
されています。”(こちら参照)
福嚴寺さんでは御朱印を拝受できました。
薬師如来さまの御朱印を拝受…コロナ禍の現在、お薬師さまの御利益に是非与りたい。
この日はこの後もお薬師さまを参詣…夫婦合流して中区上島の赤池薬師さま(白華寺さん)を
お詣りしました。次回UPいたしますね(;^_^A。