“修験道の寺”、上野西日南町の松本院さんをお参りして、寺社めぐりを続ける〝火打石〟
夫婦。さて次はどちらの寺社をお参りしようか…歩いていると
「法然上人伊賀二十五霊場 第四番 護霊山 心念寺」 心念寺さんの山門が目に入り
ました
。これも御縁と門を潜って御堂に手を合わせると
の貼り紙が
。それならば大超寺さん(観光三重のページはこちら)をお参りしよう…大超寺
さんは伊賀市上野寺町にあるのですが、伊賀上野にはお寺さんが集まっている「寺町」が
あると夫が旅行の前に情報を得ていて、できればそこに行ってみたいよねと二人で話して
いた…大超寺さんはその「寺町」にあるということで、ならば大超寺さんをお参りして、
そのまま寺町めぐりをしようということに
。
☝“寺院七ヶ寺が並ぶ寺町案内”…伊賀上野観光協会の「寺町通り」のページを見ると、
上行寺、妙典寺、妙昌寺、萬福寺、善福院、念仏寺、大超寺の7つの寺院が集まる、白壁が続く閑静な通りです。
萬福寺には伊賀越鍵屋の辻で討たれた河合又五郎の墓所が、上行寺には藤堂(高虎)家の墓所があります。
と紹介されています。(観光三重のページはこちら 伊賀市観光公式サイトのページはこちら)
〝火打石〟夫婦は大超寺さんから参詣していったので、観光協会の紹介とは逆の順で
廻ったことになりますが、順はさておき参詣記をUP
。
※上野西日南町の心念寺さんはネットで調べてみると伊賀上野の桜の名所のようですね![]()
(こちらのページ等をご覧になってくださいm(__)m)。樹齢約300年の枝垂れ桜が山門に
かかっているそうですが、〝火打石〟たちは見逃してしまったなぁ
。季節には見事に
咲き誇るのでしょうね
。
大超寺さんの御縁起をお寺のホームページから引用させていただくと
藤堂高虎が粉河(和歌山県)を去って伊予国今治(愛媛県)に移り住む際、粉河の超誓寺住職・暁誉上人は高虎に付き従い、今治の地に大善寺を建立した。
その後慶長13年(1608)になって、高虎は伊賀・伊勢を統治すると、暁譽上人もただちにこれに随い、伊賀上野に大善寺を開基した。高虎は叔父の藤堂玄蕃が関ヶ原で戦死しているので、その菩提を弔うために暁誉に命じてこの寺の開基、運営を任せたのである。その後代々、藤堂玄蕃の菩提寺、伊賀中本山として隆盛を重ねることになる。暁譽上人は、その後、住職を光誉上人に譲渡して大善寺の隣地に超誓寺を建てて隠居することになる。明治になり、この両寺は合併されて「大善超誓寺」と呼ばれるが、明治22年、現在の寺号「大超寺」と改称されて今日に至っている。(後略)
とのこと。藤堂家ゆかりのお寺さんなんですね
。山門は“玄蕃門と呼ばれる武家の菩提寺
にふさわしい頑強な個性的様式をもつ”立派な門。“藤堂家所有の鎧、甲冑などが奉納されて
いるほか、藤堂家家臣の墓も多く見られる”そうです。(“”内HPより引用)
大超寺さんの御朱印はこちら☟。心念寺さんの御朱印も拝受いたしました
。
※「慧成大師」は法然上人さまの大師号→こちらをお読みになってくださいm(__)m。法然上人
続いて念佛寺さん(観光三重のページはこちら 三重県観光・旅行見所ナビのページは
こちら)を参詣
。念佛寺さんも浄土宗(ウィキペディアはこちら)のお寺さんで、法然上人
伊賀二十五霊場の第一番札所でいらっしゃいます(こちらをお読みになってくださいm(__)m)。
念佛寺さんの歴史はお寺さんのホームページから引用させていただくと
念佛寺に伝わる過去帳には元和以前の記入が見当たらず、寛永以後のものばかりである
ことから、当寺の開基は寛永元年(1624)以降であると思われます。開山は純誉巌公上人。本堂内の開山堂には現在も上人の御尊像が安置されており、上人は寛永16年(1639)、
備前の国で布教活動中に亡くなられたと伝えられています。念佛寺のある寺町は、慶長13年
(1608)に藤堂高虎公が伊賀の国主となってから行った城下の整備にともない設けられた
そうですので、当寺の歩みは伊賀上野の町並みの歴史とともにあるともいえます。
とのこと。伊賀上野の寺町は“慶長13年(1608)に藤堂高虎公が伊賀の国主となってから
行った城下の整備にともない設けられた”のですね。
☝子安観音堂(こちら) 六角堂と通称されるそうです。“子安観音菩薩は、小夜の中山(静岡
県南部)にあるコユミという所から遷された御仏像とされ、その由緒は入口の上の扁額に
記されています。”とHPの解説にあるのですが、遠州の小夜の中山といえば「夜泣き石」の
伝説で有名…〝火打石〟夫婦は伝説に登場する久延寺さんをお参りしたことがあります。
念佛寺さんの子安観音さまが小夜の中山から遷された観音さまだったなんて
。扁額に
記された由緒をきちんと読んでおけば良かった
。(小夜の中山の夜泣き石伝説については
掛川市のページ(こちら)もどうぞ。夜泣き石の伝説は、生まれた子供を救うために殺された
母親の魂が石にのり移って泣き声をあげたというものですから、安産や幼児の成長を守護
するとされる子安観音さま(←コトバンク「子安観音」より)は、夜泣き石とつながりの深い観音
さまと言えるでしょう。久延寺さんについてはこちらのページもどうぞ。)
念佛寺さんの御朱印はこちら☟(*^▽^*)
続いて萬福寺さんを参詣するのですが、萬福寺さんには“伊賀越鍵屋の辻で討たれた河合
又五郎の墓所があります。”って、「伊賀越鍵屋の辻」をウィキペディアで調べてみますと
「伊賀越鍵屋の辻の決闘」…“鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月
7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を
伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。
曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。”ということなの
ですが、これは歌舞伎の『伊賀越道中双六』(こちらもどうぞ)に脚色された事件。若い頃
歌舞伎を観ていた時期のある〝火打石〟ですが、『伊賀越道中双六』の「沼津」の段も観劇
したなぁ…芝居にゆかりの人物のお墓のあるお寺さんをお参りするなんて
。次回は萬福寺
さんの参詣記からUPいたしますね
。
















