水戸市で寺社めぐりを楽しんだ3/11でしたが、実は水戸での寺社めぐりについて、〝火打

 

石〟は気になっていたことがありました。ご存知の通り水戸藩は江戸時代徳川御三家の一家

 

である水戸徳川家によって治められ、また、水戸学が形成された地であり…〝火打石〟は

 

この「水戸学」がどうにも苦手なんですねドクロ。「水戸学」は、ウィキペディアによると“儒学思想

 

を中心に、国学史学神道を結合させたもの。全国の藩校でも水戸学(水戸史学、水府学、

 

天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられた。その「愛民」「敬天愛人」といった思想

 

吉田松陰西郷隆盛をはじめとした多くの幕末志士等に多大な感化をもたらし、明治

 

維新の原動力となった。”とありますが、“明治の御一新”がどうにも苦手の〝火打石〟は、

 

その“原動力”となった「水戸学」にも苦手意識を抱いてしまうショボーン。(神社検定の受験勉強

 

でも、この辺りのことはテキストを読んでもなかなか覚えられなかったもんなぁガーン…) そんな

 

〝火打石〟が水戸の神社仏閣を参詣する汗。これまでお参りした吉田神社さん、水戸東照宮

 

さん、別雷皇太神さん、鹿島香取神社さん、愛宕神社さんは直接には水戸学との関係は

 

無かったけど、桂岸寺さんは“水戸学の基礎をつくった”(☜ウィキペディア「水戸光圀」より)

 

“黄門様”ゆかりのお寺さん、そしてそのお隣の回天神社さん(ウィキペディアはこちら)は、

 

幕末の動乱期、安政の大獄桜田門外の変東禅寺事件坂下門外の変天狗党の乱

 

会津戦争などで国事に殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る。”(☜ウィキペディアより) 神社

 

さん。そんな神社さんを〝火打石〟のような者が参詣させていただいて良いものかどうか

 

心中迷いましたが、目の前まで来てお参りしないというのも失礼と思い、後ろめたさを感じ

 

つつ鳥居を潜らせていただきました汗

 

 

 

 

 

 

☝写真を拡大して見ていただけるとわかるのですが、「人物紹介」で紹介されている人物…

 

 藤田幽谷藤田東湖関鉄之介安積澹泊本間玄調藤田小四郎とありますが、幽谷・

 

 東湖・小四郎は親子三代ですね。神社検定のテキストで、東湖の思想がかなり熱っぽく解説

 

 されていたのを思い出すなぁあせる

 

 

 

 

 

☝「常磐共有墓地 水戸殉難志士之墓 案内図」  “常磐共有墓地の入り口近くに林立する

 

多くの墓は、敦賀から移した鰊蔵(にしんぐら)(回天館)と共に、幕末水戸藩の悲劇を物語って

 

います。この墓は、元治元(1864)年の筑波山挙兵に関係した尊王攘夷の志士達が、志半ば

 

に各地で処刑されたため、明治3(1870)年、その遺体を集めてこの地に埋葬したものです。

 

その後、昭和8年には地元有志によって、安政の大獄以後の殉難者と合せて1785柱の

 

忠魂塔碑が建てられ、昭和44年 回天神社となりました。なお、その後漏れた志士も合祀され

 

ました。” 水戸市ホームページの「水戸殉難志士の墓」のページ(こちら)より引用させて

 

いただきました。(回天館についてはこちらをどうぞm(_ _ )m)  回天館の写真が無いのが

 

悔やまれるガーン

 

 

 

 

 

 

 

☝こちらは水戸殉難志士之墓(第二区)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☟こちらは社務所 御朱印授与していただけましたクラッカー。ありがとうございましたニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

回天神社さんの社名は、“藤田東湖の著作『回天詩史』に由来する。”とウィキペディアに

 

あります。関西吟詩文化協会の『回天詩史』のページ(2-12-2)を読むと、「明治維新は

 

苦手ショボーン…」とぼやいていた自分に喝を入れられたような気がしてきます。水戸学の学者や

 

勤王の志士たちの活躍が無ければ現在の日本は有り得なかった…“苦手意識”が消えた

 

わけではありませんが、水戸殉難之志士たちの思いを忘れてはいけないと夕暮れの神社の

 

境内で己を戒めたのでした。