愛宕神社さんで「水戸のロマンチックゾーン」(☞こちら参照)のマップを見た〝火打石〟夫婦
ですが、愛宕神社さんを参詣後、この日はそのマップに沿った寺社めぐりを楽しみました
。
二十三夜尊桂岸寺さん、回天神社さん、水戸八幡宮さん、祇園寺さんとお参りして最後に
偕楽園に出て茨城県護国神社さんを参詣。(常磐神社さんはタイムアウトでお参りできなかった
。)
宮内町の吉田神社さんから始まって毎度のことながら貧乏性丸出しの欲張りな寺社巡り
。
夫はこの日10社寺をお参りしたことになる
。う~ん、こんな寺社めぐりで良いのかなぁ⁇…
ま、良かろうが悪かろうがこれが現在の私達の寺社めぐりのスタイルなんだから仕方ない
。
愛宕町の愛宕神社さんから松本町の桂岸寺さんへ。本日初めてのお寺参りです
。
☝仁王門
☝大黒さまと恵比須さまですね
。
☝「有料駐車場」の看板が目立っちゃってるような…
☝出ました
“黄門様御一行”
桂岸寺さんの御由緒は、水戸観光コンベンション協会
のページ(こちら)から引用させていただきますと
桂岸寺は正式には大悲山保和院桂岸寺と言い、地元では水戸谷中の二十三夜尊と
呼ばれています。
天和2年(1682年)檀海和尚の開山で、元は水戸市全隈町にあった普門寺を中山備前守
信治が小松寺住職宥密(ゆうみつ)を説いて水戸藩家老中山信正の供養のため譲り受け
現在の地に建立しました。
当初は香華院(こうげいん)と称しましたが、元禄7年(1694年)、徳川光圀公の命令により
保和院と改称します。さらに宝暦5年(1755年) に現寺号を称し、密法流通の道場として京都
御室仁和寺末(おむろにんなじまつ)となり、とくに律宗も兼ねるという1寺2律の類例のない
修験場となりまし た。明治11年(1878年)、火災により旧伽藍が類焼しましたが、その後
本堂・仁王門・愛染堂などが再建されました。
とのことですが、黄門様(☞ウィキペディア「徳川光圀」参照)ゆかりのお寺さんなのですね。
“宝暦5年(1755年) に現寺号を称し、密法流通の道場として京都御室仁和寺末(おむろ
にんなじまつ)となり、とくに律宗も兼ねるという1寺2律の類例のない修験場となりました。”と
ありますが、へぇ、“律宗も兼ねるという1寺2律の類例のない修験場”って興味深いな
。
3月に上野のトーハクで特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」を観てきたけど(こちらの記事を
参照なさってくださいm(_ _ )m)、真言宗御室派と律宗の1寺2律のお寺さん…ウィキペディア
「律宗」を読むと律宗の総本山は唐招提寺、大本山は壬生寺とのことですが、壬生寺さんは
4月にお参りしてきたのよね
。御室派の総本山仁和寺さんも律宗の総本山唐招提寺さんも
いずれはお参りしたいなぁ
。
☝黄門様御一行、角度を変えて…桂岸寺さんに隣接する常磐共有墓地(ウィキペディアは
こちら)には、“"水戸黄門"でおなじみの「格さん」のモデル安積澹泊をはじめとする彰考館
の学者達、後期水戸学の中心をなした藤田幽谷・東湖父子、豊田天功・茅根寒緑や、桜田
門外の変・坂下門外の変などに参加した烈士の墓”があります。(安積澹泊については
こちら 「助さん」のモデルとされる佐々宗淳についてはこちら 「水戸学」についてはこちら
“桜田門外の変・坂下門外の変などに参加した烈士の墓”については次回の回天神社さん
の参詣記で触れます ※「助さん」のお墓は常陸太田市増井町の正宗寺さんにあるそうです☞こちらを
参照なさってくださいm(_ _ )m)
☝扁額に「開運廿三夜勢至尊」とありますね。桂岸寺さんの御本尊は勢至菩薩さま(こちらも
どうぞ)で、奈良時代の高僧・行基の作と伝えられ、鎌倉時代後期~南北朝時代の武将、
佐竹氏第8代当主、佐竹貞義の護持仏だったとのこと。
☝延命地蔵堂
☝薬師堂
☝愛染堂
☝ “平成19年11月23日には、「ぴんぴんと元気に天寿を全うし、ころりと大往生をとげる」
ことにご利益があると言われる新しい延命地蔵尊(愛称ぴんころ地蔵尊)が建立され
ました。毎月23日は「ぴんころ地蔵尊ご縁日」が行われており、参拝者で賑わいます。”
(☜水戸観光コンベンション協会のページより)
☝「格さんの墓 ご案内」…前述のとおり、常磐共有墓地には歴史上有名な方のお墓がいくつ
もあるのに夫は写真を撮っていない
…夫に訊くと、「(格さんのお墓を)探したんだけど
何処だか判らなかった
」そうで
。まぁ写真撮影を夫に任せっぱなしの〝火打石〟にも
非はあるわけで
。(藤田幽谷・東湖父子など水戸学の学者や幕末の志士の墓には夫は
興味が無かったそうです
。) 常磐共有墓地については水戸市ホームページ(こちら)や水戸商工会議所
のホームページ(こちら)もどうぞ
☝「保和苑」の矢印に従って…保和苑は水戸観光コンベンション協会のページ(こちら)に
よると
遠く元禄時代、徳川光圀公が寺の庭を愛されて保和園と名付けられたのが始まりといわれています。
昭和初期、地元有志の手によって拡張整備され、池に築山を配した純日本庭園になり、
名前も「保和苑」となりました。
とのこと。あじさいの名所だそうで、来月の10日から「水戸のあじさいまつり」が開催される
そうです(7/1まで)。
☝明治・大正時代の詩人、山村暮鳥の詩碑 (暮鳥の墓は江林寺墓地にあります)
桂岸寺さんの御朱印はこちら☟(*^▽^*)
御本尊の勢至菩薩さまの御札も拝受しました
。
桂岸寺さん参詣に続いて、お隣の回天神社さんを参詣…回天神社さんはウィキペディア
「回天神社」によると
明治3年(1870年)に現在の回天神社境内に作られた、天狗党の乱で落命した志士の墓を
濫觴とし、同22年、水戸勤王殉難志士之墓保存会が結成され合同祭祀が行われるように
なり、昭和8年(1933年)には伯爵田中光顕の後援により忠魂塔が建立された。
昭和44年(1969年)、明治百年記念事業の一環として、松下幸之助らの提唱により忠魂塔前に本殿、拝殿、鳥居、参集殿などの社殿が建立され、翌45年、茨城県知事から宗教法人の
認可を受けた。
平成元年(1989年)に水戸市常磐町の常磐神社境内から回天館が移築され、翌2年、水戸
藩士以外の殉難者21柱が合祀され、鎮魂碑が建立される。
という神社…幕末・明治が苦手な〝火打石〟にはちょっと“敷居の高い(?)”神社さん
。
それでもお参りさせていただいた…次回参詣記をUPいたしますね
。
※「敷居の高い」という言い回しについてはこちらなどを参照なさってくださいm(_ _ )m。本来は「不義理や面目の
ないことがあって、その人の家に行きにくい」といった意味合いの言葉だそうですが、幕末や明治時代に苦手
意識を持つ〝火打石〟が、“幕末の動乱期、安政の大獄、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変、
天狗党の乱、会津戦争などで国事に殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る”神社さんをお参りするのは
…
という気持ちを込めて使わせていただきました。
































